メンヘラが宗教に癒されるということ

 

 結論から言うと、私は宗教はメンヘラの癒しになると思う。

 私は何かの宗教団体に属しているわけでも特定の宗教の信者でもない。たまたま幼稚園がキリスト教で大学もミッション系、親族も自身も仏教徒でお経が唱えられる葬式にしか出席したことがなく、キリスト教と仏教、どちらにも親しんできたように思う。改宗しろだとか出家しろだとかいう記事ではないし、洗脳されやすかったり、思考が働かずに弱っている状態で宗教団体に近づくことはむしろ危ないのでご留意願いたい。ただ知っておくといいよ、ということを伝えたい記事である。(「宗教」という単語を使いながらも、三大宗教のイスラム教にはこの記事では全く触れないのでご了承願ください)

 宗教がメンヘラの癒しになると言える根拠は、第一に知ることである。二つの宗教が目指すものは全く異なるが、その宗教を知る上で必ず触れるであろう人間が持つ悩み、それらは共通しているし時代が変わろうがそう簡単に変わるものではない。どういう時代背景で、どういう文脈で悩みが語られ説かれるかはそれぞれだが、自分が抱えている悩みは時を超えた万人共通のものなのだと知ることが大切だと思う。自分の悩みが理解されないと人は不満を抱きがちだが、だいたい聖書か仏書で説かれている。

 例をあげると、私は仏教の概念である「愛別離苦」という言葉を知った時にすごく安心した。「愛別離苦」とは、人間を愛しても色々な理由で離れる時が来る、結婚に至り生涯を共にしようが最終的には死別するので苦しい、ざっくり言えばそんな意味だ。この言葉を知った時、自分の失恋の悩みなんてちっぽけでありふれているんだ、と宇宙と自分の悩みを比較した時の慰めに似たものを感じた。

 第二に、見えないものに身を任せるという行為だ。キリスト教は神に祈る。仏教は禅や瞑想をする。少し話が変わるが、12ステッププログラムという依存症の治療でよく使われるプログラムのステップの一つに、「ハイヤーパワーに身を任せる」というものがある。依存症患者は不安を感じやすく、また感情や行動をコントロールするために依存物質に頼りがちだ。例えば、面接の前に不安を感じている。依存症患者は不安を消そうと物質を使う。こういった行動をなくすために「ハイヤーパワーに身を任せる」のだ。「ハイヤーパワー」とは目に見えないこの世の流れを決めるもの、神、運命、宿命、私はそういう風に解釈してる。その行為は、キリスト教の神様へのお祈りでも、仏教の解脱への祈りでもいいと思うのだ。大事なのは不安、恐怖、憂鬱などを感じた時に、病的な行動に移さないことであって、また、衝動性というのは30分で収まると言われている。その時間を確保することは大きく病状を変えると思う。慢性的な負の感情に対しても僅かな息抜きにはなる。

 第三に、理想郷だ。メンヘラは機能不全家庭の育ちや認知の歪み故に厳しく辛い世界で生きている人が大半だと思う。その環境の中で心は荒む。キリスト教では天国、仏教では涅槃、と目指す先が異なるが理想の世界がある。その理想郷に心を浸す時間というのは安らぎになるのではないか。また、その世界に身を浸している時間が長ければ長いほど常に心の中にあるような、そんな錯覚を人間はするものだ。自分の人生では想像が不可能な苦しみのない世界を知るということは、その世界の存在の有る無しに関わらず心を豊かにする。

 この三つの根拠から私はメンヘラが宗教に親しむことは良いことだと言いたい。Wikipediaを読んでみるだとか単語をググるとかそんな程度で良いと思う。宗教にある意味薄っぺらく触れていいのは無宗教が多い日本人の特権だとも言える。熱心な信者には怒られるだろうが、どちらの概念も気に入ったら受け入れればいいという気軽さもある。(ごめんなさい)そもそも私が宗教に触れるようになったのは希死念慮からで、死んだらどうなるんだろう?とひたすら考え続けた結果それぞれの世界観を調べ始めたのだ。その内に依存症プログラムとの関連性や理想郷の存在の大きさを知り、書くに至った。物事につけられた言葉を知る、語彙力を増やすということは、内面の苦しみや辛さの言語化にもとても役に立つので、歴史と哲学が融合されたと言える宗教を知ることはおすすめ出来るのである。憂鬱で何にもやる気がしないし親指しか動かせないような時に、この記事を思い出して調べてもらえると嬉しい。

 

※特定の宗教に興味を持って団体に入るなど行動を起こす際は、一度主治医に相談することをおすすめします