インターネットが上手に使えない

 私がインターネットを始めて10年くらい経った。インターネット2.0とかいう言葉もあって、SNSが出来てインターネット環境は大きく変わったと言われているけれど、私はインターネットが上手に使えないとずっと思っている。何にも考えずに承認欲求に駆られてTwitterを更新し続けた時期もあったけれど、あれはSNS依存症だしやっぱり上手に使えていなかったと思う。

 Twitterは140文字しか書けない。そしてパワーワードというものがよく好まれる。事象を簡略化して面白おかしくしたもの。私はその簡略化という過程が好きじゃない。簡略化するには色々な物事をカテゴライズしなければならない。確かに伝えたい側はなんとなくこういうモノ、人を簡単にまとめられて楽だ。でも読んでいると雑に扱われているように感じる時がある。"主語がデカい”と言われるものはまさにそれである。140文字で物事の本質が伝わるか?と言ったら伝わるわけがない。だからTwitterで何かを変えようだとか、特に他人の意思を捻じ曲げようだとか、そういうのは全部くだらないなあと思う。簡略化された文章をずっと見ているとなんだか疲れてしまう。情報処理が下手な私の脳は◯◯さんがいいねしましたとか、よくわからない広告だとかを流し読みでスルー出来ない。私がフォロバを全然しないのは別にFF比率を気取りたいわけじゃなくて、単純にこれ以上情報処理しきれないし、フォローしているのに見るひとだけリストに入れるなんてやり方は申し訳ないと思うから。

 嫌いな人のツイッターに張り付いたことがあった。不幸になればいいのにと思いながら毎日見ていたけれど、ある日、この人がなんてツイートしたら私は満足するんだろう?と思った。幸せそうにしていたらもちろんむかつくし、でも辛そうにしていても自業自得じゃない?みたいに憤ってしまうし、私が得することってないなと気付いた。馬鹿とか気持ち悪い人なんてインターネットを探せばいくらでもいるので、そういう人をわざわざ探して見ては文句を言っていると、自分の存在を忘れた神の視点から独善的に人を批難するようになってしまってたぶん人格が歪む。まあそうして暇を潰したいなら勝手にすればいいけれど私はやらない。インターネット倫理が必要だと思う。必要だと思うというか学校で教えて欲しかった。インターネットによって人類は変わってしまったしこれからも変わってゆくのだから、明確なインターネット説明書が必要で、学校ではオンライン道徳の授業をやって欲しい。

 少しSNSから離れるけれどググることについて。私はググることがすごく嫌いだった。「わかんないから教えて〜」と聞くことが私にとって一種のコミュニケーションで、話しかけるきっかけでもあり、人に教えてもらうことが好きだった。寂しかったんだと思う。ここ最近事業を始めてとにかくひとりでググり続けている。専門的なことは本も読んだ。そうして初めて情報には価値があってそれ相応の対価を払わないと大事な情報は得られないんだ!という大発見をした。だから私は今まで色んな人が経験や労力を積んで得た情報をタダでふんだくって最悪な人間だったと今痛感している。

 インターネットが上手に使えるようになりたい。せめて情報の取捨選択が上手になりたい。最近はアップルがカテゴリーごとに時間制限をかけてくれたり、iPhoneでの活動記録をよくつけてくれるのでかなり助かっている。でも本当は何も知りたくない。自分より幸せそうな人もやばい人も悲しいニュースも厳しい社会の現実も何も知りたくない。かわいい犬とか綺麗な風景とかだけ見て生きていたいけれど、ニュースくらい見ないと世間知らずになってどんな目に遭うかわからなくて怖いから、難しい時代だとつくづく思う。知ることは辛いけれど知らないことは怖い、という葛藤で心が覆い尽くされて、やっぱりインターネットが上手に使えない今日この頃。