誰かに見せるための不完全な文章

 紆余曲折あり、専業主婦(仮)になった。

 仕事を辞めた日に彼氏から言われた言葉は、

 「俺が仕事に行っている間何をしていてもいいよ。でも、SNSはダメ。」

   甘い蜜のような言葉だけれど、長年SNSと生きてきた私にとってはとても辛い言いつけだった。彼氏の用心深い性格と、私の危うい言動を見ていてSNSを禁止したなら納得ができたので、いう通りにすることにした。

 それなので、TwitterInstagramの投稿はしなくなった。

 

    しばらく自分の思考の観察をしていた。Twitterをやめてすぐは「このことみんなに共有したい!絶対共感してもらえる!」とか「Twitterだったら絶対ウケるネタだ!」とか、そんなような思考回路が存在した。でも、次第に消えていった。たまに投稿しようと思っても、出来事を文章に起こす時間が無駄だと感じ始めた。その時間に彼氏や家のことを考えていれば些細なことに気を配ることができるのだ。

 

 SNSをやめて生まれた膨大な時間はほとんど読書にあてた。そのおかげか、最近、思考がまとまってきた。もう少しで形になりそうな気がするけれど、曖昧な何かにストップをかけられてしまう。ひとつ言いたいことがあれば色んなことに繋がっていくけれど、私はそれが嫌なのだと思う。特に、過去を思い出したくない。過去に触れずに物事を語るということは難しい。

 人にどう思われているか気になるというのもある。もはや、例えば、投稿した後に何か言われているかもしれないと不安になるデメリットを考えると、そもそも投稿する価値がそこまであるのか疑問に思えてくる。これは私にとって大きな問題だった。ついつい攻撃的で尊大なことを投稿してしまった後、見た人にどう思われているか不安になる。投稿しなければよかったと後悔する。こういった感情の動きは、無駄以外のなにものでもないと思う。

 

 私はずっと誰にも見せない日記をつけている。それだから、記録としてインターネットに文章を載せる必要はない。でも、「誰にも見せない文章」と「誰かに見せるための文章」は別物だ。「誰にも見せない文章」は面白みがなく、書き留めたメモのような簡素なものになってしまう。「誰かに見せるための文章」は創作であるし、読んだ人の役に立ちたいという思いもある。

 

 ブログを書くことは疲れる。140文字のツイートとは違って何時間もかけて記事を書く。でも、そうやって時間をかけて何か作業をすることが重要なのだと思う。

 

 私が昔Twitterで投稿した「もし、病がよくなったら、今病んでいる人を助けることがしたい」という気持ちは、ずっとある。でも、私のできることなんて微々たるものしかない。私のかける言葉で人を変えることはできない。そんなことができてしまったら、きっと私は人の弱みにつけこんだ詐欺師のような存在になっているはずだ。

 

 それだから、私が今日も生き続けていることが誰かの希望になればいいとだけ、思っている。