殴り書き

 私は高齢出産で生まれた。母親が44歳の時に生まれた子供だった。

 妹ができて48歳の時に妹が生まれた。出産の際母親は3ヶ月ほど入院した。母親を病院に残して帰ることが嫌で嫌で大泣きしていたので父親に無理やり担がれて帰った。点滴を繋がれている母親をお見舞いに行く度に見て心細い気持ちになった。もしかして死んでしまうんじゃないかと不安だった。父親との生活はあまり覚えていないが孤独だったと思う。仕事で私を迎えに来れない日は、叔母か、近所の人に預けられた。私が愛嬌がなかったのか、可愛がられるような温かみを感じたことはなかった。

 いざ、母親が出産して退院すると、もう私だけのお母さんではなくなっていた。妹を付きっきりで面倒を見ていて、私が感じていた孤独を埋め合わせしてくれるようなことはなかった。その体験のせいか小学校に入ってから不登校になった。母親と離れていることが苦痛だった。秋から突然登校できるようになったが、今でも仲が良い友達と出会うまでは、あまり同級生と遊んでも楽しくなく、内気な子供だった。

 家庭ではよく父親と母親の喧嘩があった。記憶に残っているのは全て私の教育方針についての喧嘩だった。「父親に怒鳴られている自分を母親が庇ってくれなかった」という話はよく聞く。私は確かに母親に庇ってもらってはいた。でも、自分のせいで親が喧嘩しているという状況には罪悪感があった。

 家庭環境がどんどん劣悪になり、別居をして落ち着いたものの、私は鬱気味になった。そして境界性パーソナリティ障害を発症した。それからの母親はとにかく私に振り回された。一人暮らしを始めても自殺未遂や入院を繰り返したので、母親は1〜2時間かけて何度も面倒を見に来てくれた。大学を中退して実家に戻ったが、好き勝手に遊ぶ私を許容し、金銭的にもお小遣いレベルの金額を与えられた。

 違和感を覚えたのは鬱病の彼氏と付き合った時だ。鬱病の彼氏の面倒を見ている時に私は私の面倒を見る母親を思い出した。共依存だと思った。私は愛されたい、愛されたいと嘆いて暴れる側から、いつの間にか人の面倒を見ることで自分が必要とされていると思いこむことに喜びを感じる人間になっていた。もちろんそんな関係がうまく行くはずもなく、自分に人の面倒を見るほどのキャパシティも持ち合わせていない。愚かだった。

 その後、本格的に死にかけたことで自殺願望は薄くなり、多少落ち着いた。でも私のいわゆる共依存体質は治らなかった。二次元にハマったが、共依存ものを求めた。

 しばらく社会的地位を取り戻すことに精を出した。職場で出会った人と付き合ったが、やはり「面倒を見たい」という感情が大きかった。その人との関係は自己犠牲的だった。家庭環境が悪かったと聞いて哀れんだ。愛情表現が下手なのも家庭環境のせいだから仕方がない、私が愛を与え続ければいつかわかってくれると思っていた。その人は無口でぶっきら棒なところが父親に似ていた。私は母親のようだった。両親の夫婦関係を繰り返しているようだと何度も思った。子供が出来たら教育方針で喧嘩するのではないかと考えて恐れた。

 母親が私の面倒を見たのは母として当然だったのか、共依存だったのかもうわからない。でも私が尽くすことが愛だと錯覚し、恋人とはいえ赤の他人に与えようとすることは間違っている。

 今、母親は70歳を過ぎても働いている。私からしたら酷な人生だと思う。母親が苦労する姿をこれ以上見たら、私も一生苦労することに美德を見出して生きてしまう気がして恐ろしくなる。書いていて気づいた。恩返しのようなものをすればいいんじゃないか。