同情という感情を好きだと錯覚していた話

 父親が亡くなった。経緯については今のところ話したくないので伏せておく。自殺ではない。父親の死を機にカウンセリングを受けていて、自分の対人関係に影響する大きなことがわかり、整理がついたので書こうと思う。

 父親は可哀想な人だった。父親(私の祖父)が家に女を連れてくるほど秩序のない家庭で育ったため、3歳まで親戚の家をたらい回しにされたらしい。私の祖父は私が生まれてからも荒れていて、アルコールを飲んで刃物を私たち家族に向けてきたことがある。子供だったのでよく覚えていないが、しょっちゅう酔っ払って問題を起こしていた。

 父親は口数の少ない不器用な性格で、友達も居らず、仕事も容量が悪くて辞めてしまって、なんだか寂しそうな背中をしていた。

 私が中学二年生の時、父親と母親が些細なことで喧嘩をして父親が家を出て行ったまま1ヶ月帰ってこなかった。家族は離婚の危機に瀕したが、その時母親に「おじいちゃんはあんなだったから、お父さんはどうすれば良いお父さんになれるかわからないのよ」と言われた。私は「そっかあ、じゃあ仕方ない」と不本意ながら納得してしまった。

 大人になって自分が精神を病み、機能不全家庭のことを知るようになってから父親の育った環境がどれだけ父親の人格形成に影響したか、どれだけ傷ついて育ったかわかるようになり、ますます哀れんだ。

 父親の死後、母親にまた同じことを言われた。「お父さんも可哀想な人だったのよ」と。そこで私は突然冷静になり「可哀想だからと言って娘を傷つけていいことにはならなくない?」と思った。私の中にはいつの間にか「可哀想だから」を理由に自分を傷つけることを許す姿勢ができていたのである。自分と他者との境界が曖昧になっていたことが目に見えるようにわかった気がした。

 父親は私のことを怒鳴るので私は基本的に憎んでいたが、ただ単に「嫌い」なわけではない。やはり親なので「好きでいたかった」「でも嫌い」「可哀想だから嫌いになれない」「本当に好きな部分もある」。そういう想いが錯誤して異性に投影していた。父親に似ているどこか可哀想な男性を見ると好きになってしまうのだ。今思い返せば「父親に似ている」ほど高尚な理由でもなく、同情という感情を好きだと錯覚していただけだと思う。よく考えてみたらそこまで似てないし、父親の方がまだまともなんていうこともたくさんあった。

 私は特段惚れっぽい性格ではないので、同情から人を好きになってしまうというより、同情からしか人を好きになれなかった。それにはもう一つ理由があって、私はコミュニケーションが下手だった。たわいもない話や雑談はできたし人からはそこまでコミュニケーションが下手だとは思われなかっただろう。ただ、聞く能力が欠けていた。それは他人への無関心でもあった。自分が興味のなさそうな話題だと決めつけてしまうとそれ以上深く聞かなかった。深く聞くことも詮索だと思われそうでできなかった。そうしたコミュニケーションで築く関係はどこか簡素で虚しい。それに比べて「可哀想」で結びついた関係の居心地の良さは沼のようだった。

 そうしたコミュニケーション能力の欠如に気付かされる機会が訪れた。そのきっかけとなった友人はとにかくよく聞いてくれた。しかも聞き出した上で私の話を肯定的に捉え、褒めてくれるのである。詮索だと思っていたこともいざ聞かれる側になると、私に興味を持ってくれていると嬉しくなるものだと気が付いた。それを機にコミュニケーションの本を読んだりして少しずつ人との話し方を変えてみた。自分にとってつまらなさそうとか役に立たなさそうと価値判断してしまった話でも、具体的に聞いてみると意外と楽しかったり、そういう考えもあるのかと感心させられたりする。そうやって心が弾むコミュニケーションができていれば、同情という感情から結びつきを感じる必要もないのではないかと思うようになった。

 もし、昔好きだった可哀想な人に具体的に聞くということをしていれば好きにならなかったかもしれない。可哀想な理由も私からしたらしょうもないことでがっかりしたかもしれない。エゴイストに見えるだろうが、同情を理由に他人を好きになる人間なんてだいたい自己中心的な精神で動いているので、良い人だと信じたらだめですよ。とにかく私は聞く能力が欠けていたため、人を見分けることができず、安易に父親に似ていると思い込んだのである。勝手に勘違いされて利用される側からすればとんだ迷惑だろう。申し訳ない。

 話を戻すと、同情とは決して悪い感情ではない。同情がなければ成り立たない職業もたくさんある。友達が困っていたら助けたい。ただ私は「可哀想」を武器にされるとどこまでも許してしまうから問題なのであった。憐れみながら自分を守ることは可能だし、全ての人に当たり前に与えられている権利だ。自分を守ることに罪悪感を感じる必要はない。私の周りにはこんな私と付き合えるくらいだから、優しいが故にどこか脆い人がたくさんいる。大切だからこそ踏み込みすぎないように、これからは徹底的に心がけようと思う。