治療したくない言い訳

 私は感情が薄い。

 前まで怒りの感情はかろうじてあった。しかし怒りの感情というのは感情の種類の中で一番浅いものらしい。確かに悲しいや辛いという感情を深く感じることすら私には難しい。感じすぎると自分が惨めに感じるからだ。人に怒るということはあまり惨めにならない。ただ客観的に見たら分別もなくいい歳した大人がすぐ怒るということは幼稚で恥ずかしくやはり惨めなことだ。最近の私にはメタ認知があって、普通の人だったらどういう風に考えてどういう言動をするか考える。きっと自分がどう感じるかが大切なのだが、私は私の感情を信じることができなくなってしまった。

 私は哀れまれることが嫌いだ。不幸な人の中には自分の不幸話を延々として、哀れまれたがる人たちがいる。その人たちとは正反対だ。でもそういう性格をしていたらどれだけ楽だったかとも考える。高校時代不登校だった時に「○○は可哀想ってみんなにちやほやされていいよね」と友人に言われたことがある。その言葉を放った友人の底意地の悪さに傷ついたというより、私って可哀想なんだと実感したショックの方が大きかった。クラスメイトから学校に来ないことを心配されて優しくしてもらってはいたが、面と向かって可哀想だねと言われたことはなかったからだ。それからやたら可哀想という言葉を嫌悪するようになった。可哀想とは、本来不遇の人を見たときに辛い境遇を共感し同情する優しさに近い感覚だと思う。でも私にとって可哀想と言われることも同情されることも嫌味なことだった。私は勝気でプライドの高いところがある。

 哀れまれたくないので孤高な気高さを愛した。嶽本野ばらの小説に出てくる女の子はみんな一人でも芯が強くて美しく気高い。大好きなALI PROJECTも孤高の存在であれと歌っている。

 だから自分が惨めになるような感情があることは自分に都合が悪い。

 極論を言えば感情がなくても生きることに支障はないが、とにかく他者の気持ちがわからなくなる。自分が持ち合わせていない感情が人の中にあるということを想像することは難しい。

普通の人が持っている感情を持っていないことに自己不全感を感じるし、自分がどこか冷たく石みたいで息苦しい。自分をサイコパスなのではないかと疑ったこともある。

 私には辛いとか苦しいとかネガティブな感情を引き受ける人格がいる。私の中には良かったことしか存在しない。厳密に言えば、不幸な出来事の記憶も私はその出来事があってよかった部分を見出してしまう。でも辛い人格の感情や記憶が突然溢れ出てくることがある。客観的にそういう心の機能があることを知っているので受け入れることはできるし、思い出したような気になるが問題なのはすぐ忘れてしまうのだ。それからまた自分には幸せなことしかなかったかのように生き始める。

 それでもやはり生きていくのに支障はないからいいじゃんとどこかで思っている自分がいる。

 最近とても不幸な出来事があり、向き合わなければいけないタイミングであることはわかっている。それでも日常生活に支障がなければ過去のことなんて振り返らずに生きている人間なんて世の中にはたくさんいるのになんで私だけと思ってしまう。

 感情がなくてもサイコパスで石みたいでも今までの生き方を変える方が正直面倒だ。人生への当事者意識、どうしたら持てますか。