壊したものとこれからの私

 私は意地の悪い人間で、自分は高額な人生の勉強代を払ってきたのだから、迷える他人に簡単に近道なんて教えてやるものかと思っている。ブログとは、少なくとも私のブログは、自己開示であり、自身の体験を切り売りするものであった。だからケチな私はもう書く気がなかった。そもそも私が過ちを語ろうが、精神に効く療法を語ろうが、他人はたいして変わらない。私と同じ過ちを犯して破滅する人間や、療法を続けることのできない人間をたくさん見てきた。そうして何かを伝えたい気持ちも失せた。また、考察や批評なんて専門家がやればいい。私がいくら頭を働かせたところで専門分野の知識には及ばないというのは、妹が心理学部に入ってから顕著に思うようになったことだった。

 それでも私は文章が好きだった。本を読むことは相変わらず好きであるし、誰にも見せない日記にはたくさんのことを書く。先日、ある人に久しぶりに会ったとき、私のブログが好きだったと言われた。何を書いていたのかあまり覚えていなかったので、帰宅してブログを読み返した。単純に、面白かった。また人に読まれるための文章(人に読まれるための文章と、自分だけの文章は異なるものだ)を書いてもいい気になった。それに、私はコミュニケーションが下手だ。コミュニケーション上で言葉は簡易化される。私はその”まとめて話す”能力に欠けていて、コミュニケーション不全に陥る。もしかして、私はこれからずっと平気なふりをして生きていくのかもしれない、と思ったことがある。ある程度、これは繊細すぎる私だから感じてしまうことで、他の人に伝える必要のないことだ、と呑み込んでしまうことが増えた。それならインターネットのどこの誰かもわからない人に伝えてみてもいいかもしれない。何よりいまは時間が余っている。

 

 不幸な人間には、もともと持っていない人間と持っている人間がいる。私はつい最近まで前者だと思っていた。そう思わせていたのはやはり繊細な気質で、私にとっては確かに嫌なことばかりな人生であった。そして断ることが下手だったので、どんどん嫌な目に遭い、どんどん自分は恵まれていない不幸な人間だと思い込んでいった。おまけに解離の気質が強いものだから、嫌な環境の中でも平気な顔でいることができたので、誰にも気付かれずに不満ばかり募った。そうして爆発した私は持っているものを片っ端から壊していった。しばらく一人で快適に過ごした。一人で自分の求めることを簡易的に済ませることは割と簡単なのである。でも、それらは偽物で、本質ではない。私は私の世界から一歩も外に出ていない。少しずつ壊れていく感覚がした。全部本物だったら私はどれだけ幸せだろうと考えた。私は消費行動をするにあたって、物より体験が大切だというふうに価値観を持ち直している。好きなものたちは、見るより読むより想像するより、体験する方がはるかに良かった。体験を追憶することは幸福を長引かせ、所有欲が満たされている時のおかしな虚無感とは比べ物にならなかった。この体験が人間関係だったら?外で働き出してから少しずつ夢見るようになった。そうして現実に絶望した。人間関係とは、関係性の日々の積み重ねであり、一朝一夕で構築されるものではない。この歳までろくに人と向き合わずに生きてきたという事実。今から始めなければいけないという途方もない感覚。人より人生のフェーズが遅れているという劣等感。きっとこの先も空白は埋まらないのだと思う。だけれども、私という人間は何かしらはしてきたらしい。何かしら、すら私には意味のないものに思えるが、建設的な日々でないにしろ楽しくはあったらしい。その事実に縋り付き、耐える。ただ、失わなかったものや取り戻したもの、希薄ながら私の周りにあるものを大切に。

 

 壊すことは簡単だ。信頼を築くには時間がかかるけれども、信頼を壊すのは一瞬なのである。壊してしまった過去の自分を否定はしないが、もう少し上手な生き方があっただろうに、と悲しくなる。きちんとした大人が選択を誤らないのは経験則があるからだ。若い時は、経験則がないだけ不利で当たり前なのだ。でも、若くても健康的な人は自分の気持ちや直感に素直に生きていれば、悪い方へはいかないだろう。私は劣等感と自己評価の低さから、自分の気持ちを無視して生きてきた。最近知ったのは、能動的な態度も人間関係の破滅に繋がるということ。自己犠牲の精神も長くは持たない。いま簡単に納得できることも、若い時はわからなかったし誰も教えてくれなかった。自分を導いてくれる大人が周りにいなかったという点では、環境も悪かった。出た結果の自分の努力や責任の割合は50%、環境や運の割合も50%。これはpha著の「がんばらないことリスト」という本に書いてあったことだが、過去にも適応されると思う。過去に関しては自分を責めすぎず、他人も責めすぎず、前向きに生きていきたい。社会の問題も大きいと思う。例えば、カウンセラーや精神科医などは重症にならないと質の良い治療者が出てこない。初めから質の良い治療を受けられるに越したことはないのに、この差は賃金の問題らしく、もっと精神医療が充実すれば解決できるはずだ。精神病者の問題というものは、思っていたよりも社会に大きく影響されていると今更ながら気付いた。それだから患者当人を責めたくはない。

 

 これからも私の生きづらさは変わらないけれど、確かな現実も見えているからきっとなんとかなる。また自分が嫌な人間に感じたり、被害妄想に陥ってしまったらひっそりと嘆こう。私がそう感じてしまうことは、妄想であっても私にとって事実なのだから。そうして自分を大切にしていたら、他人も大切にできるようになるだろう。

 もし、私のブログをずっと読み続けてくれている人がいるならば、ありがとう。もしかしたら何かの縁かもしれないので、これからもよろしくお願いします。