私の醜形恐怖症の話

 醜形恐怖症とは別名身体醜形障害で、自分の顔や身体の部位を過度に醜いと思う病気だ。私は醜形恐怖症だった。治ったのかと言われれば、不細工な写真をこの世に残したくなくてプチ整形するくらいなので、治ってないのかもしれない。でも自分のことを醜い、化け物と思っていた時よりはマシだ。これは醜形恐怖症の本に書いてあったのだが、醜形恐怖症患者は自分のことを”不細工”ではなく、”醜い”、”化け物”、”奇形”のように表現するらしい。私も自分のことをずっと醜い奇形だと思っていた。

 病気になったこれといったきっかけがあったわけではない。ただ小さい頃の私は可愛くなかった。愛嬌もなかった。私は真っ黒なうねった癖毛で、妹はさらさらな茶髪だったこともコンプレックスだった。妹は愛嬌が良かったのでどこに行ってもかわいいかわいいと言われていた。唯一私を可愛がってくれたアル中のおじいちゃんは大好きだった。

 私は子供の頃からお姫様願望とか女性性が強くて、スカートしか履かなかった。だがそれらは全部お下がりで、欲しい服を買ってもらったことがない。中学生の頃にニコラという雑誌を読み始めたけど、どの服も高くて買ってもらえなかった。母親は変に化粧品の成分こだわるタイプなので、雑誌に出てくる化粧水を買っても肌に良くない!と没収された。しかも美容院に行ったことがなく、いつも母親に切ってもらっていたので変な髪型だった。雑誌と自分のギャップの差に病んでしまったのかもしれない。中学三年生の頃には机に伏せて「自分はなんでブスで貧乏なんだ?消えてしまいたい」と思っていた。この頃からプリクラは苦痛だった。自分の不細工なプリクラをプリ帳に貼られ、他人に見せられるのが死ぬほど嫌だった。

 高校に入っても気分は沈んだままで不登校になり、たまに学校に行くときに電車に乗り、ふと携帯に自分の顔が映ると発狂して電車に飛び込みたくなった。何回も自撮りをして不細工死ねとお絵描きの加工をしていた。昔の自分の写真の顔をマッキーで塗りつぶした。しかしバイトを始めたことで少し心が晴れた。お化粧をして好きな服が買える。いっぱい働いたお金で好きなことをしている時間は幸せだった。だがこの時もプリクラに悩まされた。当時はプリクラを撮ってmixiにアップする時代。醜い私の顔がインターネットで拡散されていくと思うだけで発狂しそうだった。プリクラを撮った瞬間捨てるようになり、ついには自殺を決意した。こんな醜い顔で一生生きなきゃいけないなんて嫌だ、醜い顔はどこへでも付いて回るからもう死にたいと思った。自分の写真やプリクラを全部燃やし、6階から飛び降りようと柵を越えたがやはり怖かった。気づいた母親に引き戻されて後日精神科に連れて行かれた。受診前の聞き取りでなんで死のうとしたのか聞かれて「プリクラの顔が不細工だったから」と言ったら笑われた。期待なんかしてなかったが所詮そんなもんかと思った。その後もプリクラとの格闘が続いたが私も成長し、カラコンをいれるようになった。奥二重もアイテープをしていたら二重になり、目つきが悪くなくなった。一番自己肯定感をあげてくれたのが留年した学年だった。先輩かわいい!とみんなにちやほやされて自分が醜いという気持ちも薄れていった。そしてついにコンプレックスだった口元のほくろを取った。誰にも気づかれなかったけど私にとって整形したような気分だった。

 それから8キロ痩せ、大学でもちやほやされ銀座でホステスを始めた。そのとき襲ってきたのが摂食障害で、過食嘔吐がやめられなかった。水商売は周りに細いひとがたくさんいる。それなので食べたら吐くのだ。お腹がいっぱいになったら吐く癖はずっと続いた。実家に帰って吐けなくなっていつの間にか治った。というより不思議と食べることがストレス発散にならなくなった。水商売を辞め、比較対象がいなくなってから自分の顔を気にすることは少なくなったが、やはり同じ年代のひとがいる職場に勤めたときはだめだった。自分が顔の歪んでいる奇形に見えた。病んで退職しまたほくろをとった。今もほくろがコンプレックスなのでお金が余ればなくしたいし、醜い部分は全て消したいと思っている。でもボダが寛解すると同時に前より外見に寛容になった。上を見たらきりがないので、この程度でいいかと思えるようになった。マイナスだったのがプラマイ0になり、プラスにしたいなと思っている。

 今年も新年会で親戚に姉妹が差をつけられ、コンプレックスを持つ女の子がいっぱいいるんだなと思い書いてみた。子供の頃に自分がかわいくないと自覚するほど辛いことはないので、みんながおじさんおばさんになって親戚に姉妹がいたらぜひ平等に褒めてあげてほしい。