少女と私


 心地よい春の日差しの中、少女はピアノを奏でていた。その横では楕円型の少し年期の入った茶色のテーブルに少女の父、母が座り、うっとりと少女の指が鳴らす音色を聴いていた。少女が弾いているのはF.リストの名曲、ラ•カンパネラだ。経済的にも豊かな家庭で、両親に愛されて育ち、少女はなんの不自由もなく音楽に身を打ち込める幸福な日々を送っていた。
 家族が寝静まって閑散とした頃、少女は僅かに怯えていた。近頃毎晩のように悪夢を見るのである。同じ女性が叫んだり泣いたり喚いたり、惨劇ともいえる情景だ。少女は負の感情とは無縁であったし、なぜそのような悲惨な夢を見るのか見当もつかなかった。仕方なく今夜も震えながらベットに入り身をちぢこませ目を瞑るのである。

 

 割れた食器やグラスが散乱した部屋で私は目覚めた。もう昼の午後2時であった。そういえば昨夜は睡眠導入剤を大量服用して眠ったのだった。昨夜我が家に訪れると言っていた恋人が夜中の3時になっても来なかった。彼には「死ね」というメールを送った。
 この時間になっても連絡が返って来ない、浮気しているのではないか、見捨てられたのではないか、別れを告げられるのではないか、私は不安になる。こういうときはいつもF.リストのラ•カンパネラを聴くのだ。ラ•カンパネラは美しいだけではない、どこか力強さを兼ね備えている。
 しかしこの不安感はどうしようもない。私は適当な男に連絡を取ろうとした。恋人が去ろうとするのを察知すると、次の男をキープする。これが私のいつものやり方だ。だがふと思った。まるで寄生虫だ。私は部屋で一人空笑いした。男がいなければ私には何もない。空っぽなのだ。ここ数年、男をとっかえひっかえして、寄生虫のような人生だなあと思いながら携帯に目をやると、恋人からの連絡が来ていた。「別れたい」と。
 私は絶望の底に叩き付けられた。こういうときは必死に平常心を保とうとする。しかし続けて「他に好きな子が出来た、君のヒステリックにはもう耐えられない」と来る。確かに私はヒステリックだ。でもそれを受け止めてくれてこそ愛ではないのか?私には父親がいないため恋人には父親のような包容力を求めていたし、受け入れられていると思っていた。その後数回メールのやりとりをして通話をしたが、彼の意志は変わらず、私は悲しみと怒りで携帯を壁に叩き付けた。

 

 また悪夢を見た。恋人に別れを告げられたらしい。あの女性は何なのか?少女はうやむやしながら朝食のフレンチトーストを口に運んだ。父親が機嫌良くリビングのドアを開けながら「今日は買い物にでも行こう、発表会用のドレスも買わなきゃならんしな」と言った。この一家、というよりこの父は異常に娘に服を買い与える。少女も可愛い服が大好きだったので、にこやかに頷いた。

 

 私はマンションの八階に立っている。散々恋人に縋り付き、罵り尽くしたあげく着信拒否され、他の男達にも連絡をとったが誰も手を差し伸べてくれる人はいなかった。身を引き裂かれるほどの苦痛であった。コンビニで買った500mlの酒を一気に飲み干し、携帯でラ•カンパネラを流しながら死について考える。死ぬのはとても怖いから、せめて生まれ変わって幸せになれるとでも思わないと死ぬことなんて出来ない。ふと自分の格好を見ると、しまむらで買った可愛くもないセーターにぼろぼろのズボンだった。子供の頃から自分の着たい可愛い服なんて買ってもらえたことがなかった。もし生まれ変わったら、暖かい両親に愛されて、可愛い服を着せてもらって、あ、ピアノを習ってラ•カンパネラを弾きたいなあ、なんて想像したら少し楽しくなってきた。マンションのベランダの手摺りに手をかける。冬のベランダの手摺りはとても冷たい…


 少女はハッと目覚めた。そして全てを悟った。私は彼女の生まれ変わりなのだ、と。

 

終止符


「飛び降り自殺ですね」
中年の割腹の良い刑事が言った。
「マンションの8階のベランダから飛び降りた形跡と、机の上に遺書がありました」
こちらは新米刑事のようだ。
ここは港区の高級マンションが並ぶ閑静な住宅街だ。
「亡くなったのは女優の美園聡子さん。21歳。まだまだこれからだったのに残念ですね…」

 

聡子は駆け出しの女優だったものの、ニュースや各紙面で報道され話題になった。
聡子のマネージャーであった増田美奈子は連日マスコミに追い回され、疲労困憊していた。
ある晩、美奈子は息抜きに、と人目を避け行きつけの"Barミラノ"へ行った。
「マスター、いつものお願い」
「了解」
マスターは愛想良く応える。普段は仏帳面であるが笑うと口横にえくぼができるチャーミングなマスターである。
「もう大変よーマスコミに追い回されちゃって休める暇もないったら」
「お疲れさま。聡子ちゃんのこと、残念だったね」
「ああ、聡子はね…いつかああなると思っていたわ」
美奈子は遠い目をしながらこう洩らした。マスターはドリンクをカウンターにそっと置く。
「あの子、表に出る時はお人形みたいに大人しそうな顔してたけど、裏では散々…情緒不安定だったのよ。泣いたと思ったらいきなり怒り出したりしてね。そう、ヒステリック。『放っておいて!』っていうからその通りにしたら『なんで一人にするの!』なんて言われたりしたわ。男関係も酷くてねえ。社長に何度怒られたことか。あの子は一人でいられなかったのよ。あまりに不安定だからこの頃はこっそり精神科に通わせて精神安定剤睡眠薬を飲ませたりしたけどダメ。処方量を守らないでたくさん飲んじゃうんですもの。意識失って部屋で倒れてるのを見たときなんて血の気が引けたわ。でもねえ、放って置けなくて、いや、マネージャーとしてじゃなくてよ、母親のように頭を撫でて手を握ってやりたいと思った。まるでひとりぼっちの少女ようだったわ…」

 

翌日、"Barミラノ"には一人の青年が来ていた。彼は酷くやつれていた。元々背が高く細身で頼りなさげな風貌だった。

彼はすでに酔い潰れ、泣き崩れていた。マスターは静かに彼が嗚咽しながら語るのを聞いていた。
「聡子は…聡子は…俺のせいで死んだんです。あの日口論になって、ついカッとなって、お前なんてそこから飛び降りちまえ!だなんて…そのまま聡子を一人にして、俺は…」
マスターは静かに、彼が追加注文したドリンクをカウンターに置いた。
「お客さん、ほんの些細な一言が運命を変えてしまう、私には神様の悪戯としか思えませんよ。そうご自分をお責めにならないでくださいな」
青年は酒を一気に飲み干し語り続けた。涙は頬を覆ってやつれた顔をぐちゃぐちゃにしていた。
「聡子は…聡子は、とにかく一人でいられない女でね、聡子を放って俺が一人で出掛けでもしたらすぐどこかの男と寝てました。だから会社も辞めました。最近じゃ聡子は薬と酒漬けの毎日だったからつきっきりで面倒を見てました。聡子は出会った頃から荒んでいて、飲み歩いては知らない男と寝てましたよ。顔がいいから相手はいくらでもいるんです。聡子は、安定しているときは可愛らしくて無邪気で思いやり溢れる魅力的な女性でした。ですから聡子をなんとか救ってあげたくて、本当の聡子に戻してやりたくて、全てを捨てて、身を削る思いで尽くしてきました。でも俺にも限界ってものがあって、実は、聡子とは亡くなる数日前に別れてたんです。それはもう悲しくて悲しくて普段吸わない煙草なんてものを吸ったりしましたよ。ところが、聡子の家にあった荷物を取りに行ってみたらもう別の男がデキていて、それもまたヤクザと繋がりがあるとかいうダメな男でした。そんな男と付き合って幸せになれると思います?堕ちていくだけでしょう。俺の今までの聡子を救いたいという一心でやってきた苦労と努力は一体なんだったんですかね?全くの水の泡じゃないですか!だからついカッとなって、あんなことを…」

 

一週間後、"Barミラノ"には一人の女性客が来ていた。スーツを着たキャリアウーマンといった物静かな雰囲気の女性だった。
「マスター、聡子、知ってます?先日亡くなった女優の」
ブラッディメアリーを口にしながら落ち着いた口調で彼女は尋ねた。
「ええ、ええ、知ってますよ」
相変わらずチャーミングなえくぼを作りながらマスターは応える。彼女は続けた。
「彼女は私の学生時代からの友人だったんです。最近は電話でときどき話す程度だったけれど、それも聡子が寂しいときの寂しさしのぎの相手としてね」
「それはそれは…今回のこと、お辛いでしょうねえ」
彼女は悲哀に満ちた様子でしばらく黙った後、口を開いた。
「辛いですよ。三日間、食事も喉を通りませんでしたから。まさか本当に死ぬなんてね。昔から『今から死ぬ!』って電話が来て、駆けつけたら何ともなかったなんてことが何回もありましたからね。それでいて心配などしてあげてみたら『放っておいてよ!』って言うんです。そうやって周りの友人はどんどん離れて行くんですよ」
「ずいぶんお騒がせなお方でしたな」
彼女は肩をすくめて苦笑いした。
マスターは注文されたセロリとイカのマリネをカウンターに出した。
「本気だったのか構って欲しかっただけなのかはわかりませんけどね。聡子は自ら突き放しても突き放しても、追ってきて欲しかったんですよ、きっと。そのくせこっちが呆れて離れて行こうとすると、ひたすら『ごめんねごめんね…』って捨てられた猫みたいな顔して縋ってくるんです。参っちゃいますよね」
「人、に何かを求めてたんでしょうなあ」
彼女は出されたセロリとイカのマリネを口にする。
しばらくして、急に物憂げな顔をしながら彼女は語り始めた。
「あの夜、聡子から電話があったんです。『もう死ぬ』と。もちろんまたか、と思いましたよ。でも今回は本気でした。いや、今までもずっと本気だったのかもしれませんね。聡子は『どれだけ男と寝ても、たくさんのファンが居ても、お金がいっぱいあっても、私はいつも孤独で虚しかった。満たされないものを埋めようともがき続けた。私のその身勝手な振る舞いでみんな離れて行ったわ。もう私の居場所はどこにもない。これ以上大切な人を失いたくないの。醜い私の姿を晒し続けたくないの。だから、全て終わりにする』って泣きながら話していました。聡子は自分がコントロールできなかったけれど頭が良かったから、自分の姿を客観視できていたんですよ。あの元カレの言葉も聞いたけれど、あれはきっかけに過ぎなかったと思いますね」
彼女はそう言って黙り込んでしまった。店内は二人きりだった。
しばらくしてマスターは神妙な顔つきで静かに口を開いた。
「人間には、人生に自ら終止符を打つ権利があるのでしょうかねえ?」