近況報告

 お気付きかもしれませんが、私がブログを書く日は早朝覚醒しています。暇だし頭冴え冴え目がバチバチなので。

 ツイッターでちらほら言っていたけど、船の上でプロポーズしてもらい正式に婚約しました。来年籍を入れるつもりです。まだ悩むこともあるけど彼となら解決していけるし、ちゃんと納得させてくれると思います。

 とても寛容な人です。病気やイマジナリティーフレンドや乙女ゲームの趣味やロリータまで、浮気以外何でも受け入れてもらっています。当たり前な話だけど、優しくされたら優しくしよう、許されたら許そうって思えるじゃないですか。私はなんの見返りもなしにぽんとそういう優しさや許容を他人に与えられなかったので、今までうまくいかなかったんだと思う。一度始まれば連鎖していくし、その始まりを作ってくれたのが彼だった。指輪を渡されたときぶっかぶかで、修理屋さんに行って測ってもらったらサイズ11号で、私の薬指は6号なのに何を勘違いしたの!?と怒っていたけど、彼に求めてるのは別にロマンティックな恋愛じゃないのでいいやと思いました。彼の道に迷わないところが好きで、ロマンティックなデートスポットに行っても道に迷われたら興醒めしちゃう。

 ボーダーはどうなったの!?って一番気になるところかもしれませんが、相手が彼だから治まってるって言うのが正しいのかもしれない。好意に甘えてるわけじゃないけど、彼は一度好きになったものをそう簡単に手放すタイプではないし(今までの交際遍歴とか物への執着を見ても)ある日突然連絡が来なくなるような不安はない。ただ付き合い始めはやっぱり不安が大きかったから荒れて、死ね、死んで欲しいと言い続けました。彼曰くそれも三日に一度くらいなら耐えられるから大丈夫らしい。私は自分の治療方針を持っているのでいくら彼が許してくれても、治療方針から逸れることはしないししたくないのでしないけど。そんなかんじで治まっています。

 こういうこと書いた日に喧嘩しちゃうんだよな、こういうこと書いた日にボダっちゃうんだよな、足元掬われるんだよなとおっかなびっくりです。

 あと最近また同級生に会うようになりました。1月正社員をやめてから灰になり職業訓練も一瞬で辞めてゴミになっていたけど、最低限やりたかった職種の勉強をして在宅でちらほらやったのでようやく会わせる顔が出来たなってかんじです。まあみんな私が在宅してるって言ってもそりゃそうなるなみたいな顔します。平成4、5、6世代だけど、どんどん結婚していく人たちと恋人もいない人真っ二つに分かれてますね。リア友に会うとツイッターじゃ絶対流れて来ないような結婚式お得情報などが入ってくるからラッキーです。あとやっぱり私は恵まれていて、大学の友達なんてどれだけ迷惑かけたのかもわからないのに喜んで会ってくれるし、本当に嬉しいです。あの時にもっと人の好意をうまく受け入れられて、ありがとう!頑張るね!って前向きになれたらどれだけよかったか。それでも中退していなかったら今の自分はないので結果的に良かったんだけどね。

 ベランダに鳩の雛が住み始めてピヨピヨ鳴いています。以上近状報告でした。

ストラテラ、リーマスを減薬しました

 散々ツイートしてるがストラテラリーマスを減薬した。ストラテラ120mg→60mg、リーマス600mg→200mg。きっかけは異常に体が重いことだった。先延ばし癖なのかと思ったがどんどん日常生活が出来なくなっていきこのままじゃ廃人になると思った。

 ストラテラ減薬について調べたがまず120mgを二年以上も飲んでる人がいなかった。そもそもストラテラは一年飲んで普通の感覚を身につけてやめるものだった。私は社会適応を重視したことからマックス処方をやめられずにいたのである。血中濃度が本格的に下がった時の衝撃はすごかった。脳内ノイズが走りまくる。頭にたくさんのことが思い浮かぶので、一言喋るのにも1ツイートするにもリプライするにもすごく時間がかかった。たくさんのことに気付き、思い浮かぶので発言することを選ばなければならないと思った。その際に必要なのがアイデンティティだった。もし思ったことを全て発言していたら私という人物像は側から見ても崩壊していたと思う。ボーダーに侵されてからほとんどアイデンティティを失い、すぐにデパケンストラテラで無になった私は発病前の自分を思い出すしかなかった。とりあえず品良く生きるということだけを念頭に置いて、今は昔好きだったクラシックを聴き、耽美派作家を買い戻し、ヴェルサイユ宮殿を眺めている。

 

 以下が断薬で変わったこと一覧になる

・創意工夫が出来るようになったので問題解決が出来る、不満や不便を感じてもこうすればいいのでは?というアイディアが思いつく

・死にたいほど暇で悩んでいたが、今はやるべきことをやったり、考えたり悩んだりしているうちにあっという間に一日が終わる

・先延ばし癖がなくなった

・金銭管理が出来るようになった

・計画的に行動できるようになった

・周囲の異常に気付く(部屋が汚い等)

・食欲がなくなった

 

 ここからはマイナス面になる

・心の底から湧き出てくるような衝動性がたまにある

・働く意味がわからなくなった

・かなり疲れやすい

・恐怖、不安がリアルで一時的パニックになる

・誤字が激しい

・お酒が弱くなった

 

 以上のような結果である。ストラテラ120mgを飲むと悩みや不安、恐怖を全く感じなくなってしまうので後先考えない行動をしてしまっていたのだと思う。適度な悩みも不安も恐怖も危機管理能力として必要なのだと思い知った。遠回りをしたがADHDで悩んでいた先延ばし癖も無計画も部屋の汚さも良くなった。社会適応能力がものすごく落ちてしまったのが悩みだが、あまり切羽詰まってもいないのでこれからどうするか考えていきたい。また、服薬中死にたいほど暇でアルコール依存気味だったのだがそれも治った。アル中病棟一歩手前だったので助かった。

 主治医は毎回これだけ必要か聞いてくれていたが、私は薬で無双して健常者一級になりたかったのである。痛みを感じない兵士が戦場に行ってボロボロになるような状態で私は生きていたんだと思う。普通の感覚を取り戻したが相変わらず生きるのは難しい。でも少し成長出来た気がする。

 

最近起こったことについてひとりごと

 「君の心がわかるとたやすく誓える男に なぜ女は着いていくのだろう そして泣くのだろう」

 中島みゆきの空と君との間に

 

 ただ、起きた出来事を書こうと思う。あの日のあの場面が頭の中をぐるぐるして、それもうまく言語化出来ないから起きたことを淡々と。

 

 彼は彼女と別れて3ヶ月ほど経っていた。以前にも付き合いたいとか付き合う?とかいう話は出ていたが、もう少し気持ちが落ち着いてからと付き合わないでいた。

 一方私は婚約していたが、彼氏は先月逮捕されて捜査中の身でうまく行かず荒れていた。その悩みを彼に相談していた時だった。

「そんなに好きなら一生相手に尽くす覚悟で着いて行かないと難しいね」

「好きじゃないよ!?」

「じゃあ何で付き合ってんの!?」

「この先私を好きになってくれる人なんて現れないと思ったから」

「俺好きだよ!?付き合う!?」

こんな感じで付き合った。

救われたと思った。私は警察やツイッターの暗闇にもう身を浸していたくなかった。そんな世界から抜け出したかった。普通の世界に戻りたかった。

 

 それから二日、デート帰りだった。彼が元カノに私と付き合ったことをラインで報告した。すると元カノが発狂した。このままだと死にそうだと彼は言っていた。死なれるのも嫌だし和解したいから家に行かせてほしいと言われた。私は彼の意思を尊重した。

 終電間際の駒込駅だった。人が少なく静かだった。

「行って欲しくない?」

と聞かれた。私は頷いた。

「裏切らないでね」

と言った。電車に乗る彼を見送る。

 

 次の日、「やっぱり元カノが好きです、傷つけるのもわかっているけど裏切らせて下さい」とラインがきた。そっかあと思った。感情がなかった。

 彼の名誉を晴らすために言うが、彼は誰もがあいつは良い奴と口を揃えて言うような人間だった。私が3年間仲良くしていて彼の性格に難を感じたことは一度もない。それだけ信用していた。もし、この事件の当事者が私ではなく他の女の子だったらどう思うだろうか。元カノの所に戻った、とだけ聞いたらまあそういうこともあるよな、と聞き流したかもしれない。でも私の今置かれている状況、世界が真っ暗闇で突然救われて突然捨てられて最後に裏切らないでねと言った、という状況を映画のように客観的に見たとしたら悲しくて泣いてしまうと思う。ただ一つ分かることは彼は浅はかで軽率だった。どれだけ良い人間でも間違えを犯すし人を傷つけてしまうのだ。たまたま私はそこに遭遇してしてしまった。

 今でも恨んではいない。好きの量が勝るなら私がふられるのがこの世の道理だからそれに歯向かうつもりはない。でも私が「行かないで!」と彼の意思を尊重出来ない人間だったらこんなことにならなかったのだろうか。元カノは現に彼の意思を尊重せずに死ぬ!と騒いで奪い取った。私が長年境界性人格障害の治療で心がけてきた「好きな相手の気持ちを尊重する」という志は全く無に帰すのだ。「真っ当に生きていても生きようとしていても、たまにはこういうこともあるかもしれないね」自分にそう語りかけてみる。

 きっと何事もなかったかのように過ごそうと思えばそう出来るのだ。ただ、もやもやした世界に浸っている。浸っていたいだけなのかもしれない。何もわからないが今日も私はアルコールを飲んで朦朧としているだろう。

 助けて。

私の高校留年生活と「学校が嫌なら逃げろ」という風潮についての話

 「学校が嫌なら逃げろ」という風潮が最近あり、逃げ続けた結果、7年間もの引きこもりになったというネットニュースを見て考えさせられるものがあった。私は高校不登校のち留年か通信か迷った末留年生活を送ったので、体験談と持論を語ろうと思う。

 前置きとして私の通っていた高校は普通の高校と違って単位制だった。クラスは三年間一緒だが、理系、文系、芸術系等別れていて一年目の必修が終われば皆ばらばらの授業を受けるようになる。大学のように一年目に沢山単位を取れば三年目は時間が空くわけではなく、受ける授業が選択制であるだけだ。

 入学前の3月から病み続け、引きこもり続けていた私だが、入学しても当然うまく行くはずもなく、見知らぬ人だらけなのがとても怖くて、今日だけ休もうが続き不登校になった。他の要因を考えれば吹奏楽部の勧誘がしつこく、嫌嫌入ったものの一週間で辞めた居づらさがあったかもしれない。学校専属のカウンセラーにカウンセリングを受けたが、特に人間関係に問題があるわけでもいじめられてるわけでもなく、単に人が怖く、クラスの雰囲気が嫌なだけだったので解決しようがなかった。担任も今考えても頼りげのない人だった。とても憂鬱な気持ちで、今までただ「消えたい」と思っていた程度が「今飛び込んだら死ねるかな」と自殺まで考えるようになった。また、醜形恐怖症も酷く通学中の電車でスマホが暗転した時に写る自分の顔を見て何度も発狂しそうになった。それでもぼちぼち通っているうちに6月頃に気の合う友達が出来た。その子も合唱部をすぐに辞めていて帰宅部だった。「うちのクラスはみんな真面目すぎてありえない」そんな話をよくした。だんだん学校に行けるようになったものの、夏休みを過ぎればまた行けなくなり引きこもった。

 9月の文化祭でまた疎外感を感じ、完全に学校に行かなくなった。その代わり10月から飲食店でアルバイトを始めた。その頃ビジュアル系バンドにハマっていたのでとにかくライブに行くお金が欲しかったのだ。上記の友達も土日には遊びに誘ってくれてよくカラオケに行った。12月には高校を辞めてすぐ近くの通信制高校に行く予定だったが2月に転機が訪れた。本当にしょうもない話だが大好きなバンドマン(偽物か本物かわからない)とメールをするようになり、返事は一日一回くらい、とにかく返事が欲しかった。何か良い行いをすれば叶うんじゃないか?そんな安易な気持ちで久しぶりに学校に行った。アルバイト経験で少しメンタルが強くなっていたせいか苦しくなかった。クラスの人たちが受け入れてくれたので、出席数が足りなく留年が決まっていたが「みんなと修学旅行に行きたい!」と思い、留年の道を選んだ。

 留年の方法は二つあり、クラスに所属したまま下の学年の授業を受けに行くか、完全に下の学年のクラスに移るかだった。私は入学時のクラスに残る方を選んだ。ここからが戦いだった。突然クラス外の人間が授業に入ってきたら皆驚くのも注目を浴びるのもわかっていた。それなので私は「隠キャな留年している先輩なんて絶対に思われないようにしよう」と変な意地を張り、毎日薄メイクに髪を巻いて授業に出た。結果的に”なぜか留年してる雰囲気可愛い先輩”になりきれたと思う。一年目に取れた単位もあったので休み時間も一人行動で色んな教室に飛び回った。それでも「絶対ぼっちで可哀想な人に見られたくない」と意地を張り、私は孤独ではなく孤高なんだと思い込んで物怖じせず振舞っていた。鬼門だったのは体育の授業で、私の学年は赤ジャージ、下の学年は青ジャージだった。青ジャージを買うかと担任に聞かれたが、また変な意地を張って買わなかった。流石に最初の授業の時に全員が集まってる中「おい、お前なんで赤ジャーなんだ」とマイクで言われ、同日に上履きを隠されたときは泣いた。上履きを隠されたというといじめられていたような語弊が生まれるが、いじめではなく誰かの私怨だったと思う。むしろクラスの人たちは放課後みんなで上履きを探してくれたので、優しさを感じて嬉しかった。

 留年するに至って「一人で生きる作戦」というものを作った。ひとりで楽しめるものを見つけ楽しもうという作戦だ。その一環として図書室にしょっちゅう通った。その時の私にとって本はとても楽しかった。恩田陸乙一のような読みやすい本から読み始め、嶽本野ばらに出会った。嶽本野ばらの作品には孤高に生きる少女がよく描かれており、私もこんな風に生きたいと、とても励みになった。そこから耽美派ロココ調に派生して、三島由紀夫澁澤龍彦を読み、ロココ時代の詳しい資料を読み漁り、そこからまた気になる王朝を調べたりして充実していた。今思えば揃えの良い図書館だった。

 しかし、なかなか毎日通うのは難しかった。ひとり浮いていることに気疲れしていたし、その頃から持病の躁鬱の傾向があったのだろう。授業を欠席すると必然的にノートが取れなくなるので見知らぬ人にノートをよく貸してもらった。また、忘れ物が激しいのも悩みで、教科書、ノート、プリント、宿題、何か一つ忘れるのだ。そしてまた見知らぬ人に見せてもらう。今私が持っている上辺だけのコミュ力はこの頃ついたのかもしれない。勉強には数学の赤点以外なに一つ不自由しなかった。何より休み時間に気を張っているより授業に没頭している時間の方が楽しかったのだ。元来、私は勉強するのが好きだった。

 三年目になると一年目に取れた単位分空白の時間が週に二時間ほど空くので、教室を一つ借りて、だいたい終わらなかった宿題をやっていた。でも見張りはいないので勝手に図書室に行ったり、寝たり好き勝手していた。あの不思議な時間を味わった高校生はなかなかいないと思う。

 四年目が一番問題だった。一つ下の学年のよく授業に行っていたクラスに入り、グループにも入れてもらい、揉め合いに揉まれながらも楽しくやっていたのだが、私の孤独感も見栄を張るのも限界だった。クラスのチャラ男に引っかかり、そのまた後に学年一というか学年唯一のDQNに引っかかり、交際してはちゃめちゃになった。そのDQN彼氏も私のように出席日数が危うく、赤点ばかりとっていて卒業が危ぶまれていた。しかし、彼はしょっちゅうサボろうとか途中で帰っちゃおうとか言うのである。バイクで三日くらい旅に出て、親に学校に通報されたこともあった。それでも三年の孤独と気が張り詰めていたのが解けて、彼にものすごく依存した。それから二股という裏切りに遭い、ドロドロの共依存になり私は境界性人格障害を発症して勉強に手がつかなくなりいくつか赤点を出したが、メンタルクリニックに通っていたので診断書で卒業した。卒業式も出なかった。

 進路にも問題が生まれた。「どうせ入学する頃には死んでるからいいや」と思い何も考えずに学費が馬鹿高く、馬鹿みたいに遠い大学に自己推薦で入った。人生の後悔の一つである。馬鹿みたいに遠い大学に毎日通えるはずもなく、メンタルもぼろぼろで結果的に三年目で中退した。

 ここで冒頭に戻り「学校が嫌なら逃げろ」の是非だ。正直、どちらとも言えない。就活しているとせめて高卒でよかったと思うこともある。また、逆境の中卒業出来たことは私の成功体験の一つだ。そこそこ進学校なだけありまともな教育も受けられたと思う。本に出会えたのも大切なことであるし、今でも仲良く出来る友達も出来た。でも、もしあの時に通信に転校して自由にアルバイトをして好きなことを楽しみ、緊張感のない、自由な毎日を過ごしていたらどうなったのだろうか。私は自律心がないので通信の課程を終えられたかも不明であるが、通信から立派な大学へ進学する人もいくらでもいる。また、高校卒業認定試験というものもあり、高卒資格をとってから大学へ行くことも可能だ。金銭面を考えれば奨学金で学費が馬鹿高い大学に入ったのは大きな過ちだった。未だに奨学金は返済し切れていない。高校卒業認定を取ってから大学に入り、辞めてしまった人も見たことがあるし、私のように朝起きれない人が賢く通信から日東駒専レベルの夜間に入り、うまくやっているのを見たこともある。そう考えると選択肢は無限にあり、また失敗してしまう可能性も無限にあるのだ。高校不登校の原因が一時的なものなのか、発達障害精神障害のような長く付き合う病気なのかもわからないことが多いだろう。私は4年目で発症した境界性人格障害は遅かれ早かれ発症していたと思う。通信に行っても高校卒業認定をとっても、大学で、またはアルバイト先で、どこかで必ず発症したはずだ。ただ大きな問題は進路選択時の未来をきちんと考えられる精神力がなかったということだ。社会生活において学歴はとても大切なものだが同時にお金もとても大切で、軽々しく考えてはいけないことだと私はわからなかった。軽くまとめれば、高校は続けてよかったが、精神力低下時のサポート不足だったため進路選択に影響が及んだ。境界性人格障害発症時にかかった医者は、特に心に語りかけることもなく淡々と薬を出すだけだった。両親の意思も影響するだろうがそこは個人の問題なので伏せよう。

 結論的に、高校から逃げても逃げなくても、精神的なサポートを行い、前向きに人生を歩めるように導くことが親、周囲の務めであり出来ることだと思う。安易に「逃げろ」と言って別の道を歩ませても精神的な問題は再発することが多いので、どこかで躓くだろう。そんな時に支えてくれる人がいることが理想だが、現実はそうじゃない場合も多い。しかし、今はネットワークが盛んだ。色んな道を模索することが出来るしお手本を見つけることも出来る。そして良い精神科の見分け方が紹介されているサイトもあればカウンセリングも気軽に受けられる。気持ちが落ち込んでいたり自暴自棄になっている間はそういったものを受け容れ難いだろうが、ふと我に返った時、気持ちが落ち着いた時に考えてみるといいと思う。不登校経験者としてひとりでも後悔しないような、後悔しても立ち直れるような道を選べる人が増えたら私も嬉しい。

3年前の自殺未遂の後遺症

 3年前、睡眠薬を致死量飲んで三日間ぶっ倒れた。誰にも見つからないところで飲んだのだが母親に探し出され搬送された。目が覚めたら病院だったが、自殺未遂を図ったという記憶がなく、どこかで事故ったのかなと思っていた。ふと体を動かしてみると右腕がまるで動かない。指も動かない。看護師に報告し、MRICTIなどいろいろな検査をしたが脳からの神経の異常ではなかった。三日同じ姿勢で腕を圧迫し続けたので神経が麻痺したらしい。簡単に言えば「男女が添い寝をするときに男性が腕枕をすると翌朝腕が痺れている」現象の重い症状だ。時間が経てば回復するとは医師に言われたものの、絶望でいっぱいだった。人生終わった。人生終わったから自殺しようとしたのにさらに人生が終わってしまった。それから半年間は腕の痛みとの闘いだった。神経痛が右腕に

一日中走り続け、夜は眠れないし朝起きれば腕の重みにぐったりする。最悪だったのが、肩を脱臼したことだ。力の入らない腕の重みに耐えきれず肩が抜けた。激痛だった。精神の痛みを薬で麻痺させることに慣れきっていた私は、鎮痛薬にも限界があるということを学んだ。退院後も数ヶ月は骨折した人のような状態で生活していた。もちろんお風呂には一人で入れないので、入院中は介護士さんに、帰宅してからは母親に頭を洗ってもらっていた。だいぶ良くなりリハビリに通い出したが、これもまた苦痛だった。握力が10しかないのに重いものを持たされて30回持ち上げましょうの状態を想像してもらえればだいたい合っている。そんな一年を乗り越え、日常生活には支障が無い程度に良くなった。

 ここからが本題である。麻痺の影響で失った趣味への未練だ。アイデンティティが希薄でありながらもこだわりもある程度あった。例えば私はピアスが大好きだった。ピアスをたくさん集めていたし、勝負どころでとても大事にしていたものだ。だけれど、一人でつけることが出来なくなってからピアスをつける習慣がなくなった。もう一つは読書だ。紙をめくるというのは麻痺している手には非常に億劫だ。どんどん本の読み方を忘れ、導入だけでだるくなってしまうのだ。最後にピアノ。自殺未遂をする前に最後に目指していたのがピアノの先生だった。ピアノが精神を救ってくれたかといえばそうではないが、私には欠かせないものだった。無邪気にピアノを楽しんで弾く人をみると憎くて堪らなくなる。私が今ピアノを弾いて持つ感情は、昔だったらもっと上手に弾けたのに、という悔しさだ。簡単なオクターブのない曲を弾いてもわかる人にはわかってしまう。左と右のタッチが全く違うこと。完全に自己満足で弾くしかないが、自己満足にすら至らないのだからとても辛い。

 身体の障害は単に不自由なだけではなく、精神の自由まで失ってしまうのだと最近思う。未遂以前のことばかり思い出す。あの頃も死にたくて仕方がなかったのに、あの頃の方が自由で、充実していて、輝いていた気がする。思い出はいつの日も美しく映るもの、と言ったらそうでしかないのだが。後遺症を負わないように完遂しろ!とも言わない。自殺するな!とも言わない。だけれども、こんな自業自得などうしようもない苦悩を持っている人がいるということを知ってほしかった。

 皆さま、どうかご自愛ください。

メンヘラ神の話

 なぜか最近メンヘラ神が再燃していて質問箱でお題をいただいたので書くことにした。よく考えて見れば事情聴取で話していた気になっていてツイートしていなかったのかもしれないし、そんなの聞き飽きたよという人もいるかもしれない。昔ブログを書いたような気もしてきた。各自で読む読まないを決めてくれればいいと思う。

 初めてメンヘラ神を知ったのはツイッターで”メンヘラ”とパブサした時だった。私はもちろん病んでいたので、メンヘラなのにこんなに楽しそうに生きてる人がいるんだ!と驚いた。実際は全く楽しくなかったのかもしれないが、メンヘラ神の言う”面白おかしく”書かれているので楽しそうに見えたのだ。メンヘラ神とその彼氏、メンかれをリア垢からフォローした。私はリア垢でもかなり病んでぶっ飛んでいたのでメンかれからフォロバをもらい、何回かリプライを交わすうちに私もちゃんとしたメンヘラアカウントが欲しいと思い、メンヘラアカウント”ぞんびちゃん”を作った。それが終わりの始まり。

 新しいメンヘラアカウントで相互が出来てコミュニティが出来てグループラインを作ってわいわいやっていた頃だと思う。メンかれにオフ会に誘われた。メンヘラ神の写真を見せてもらったけど可愛くなかった。よく覚えていないけれど本当に可愛くなかったしメンかれもそれは言っていた。私はよくメンヘラ神が〜ってツイートしてたけど本当!?みたいなことをよく聞いたのだが大抵「わからない」と言っていた。後々、虚言癖らしかったことを聞かされる。半同棲しているのにそんなにわからないことだらけなんだというのが感想だった。あとは特に大した話はしていない。メンかれは結構人見知りだったので無口だった。

 次の日、メンヘラ神が別れましたとツイートしていた。まああの様子じゃ続かなそうだし仲良く別れたみたいだからよかったなと思った。フォロワーを絞った鍵垢でメンかれはほとほとメンヘラ神に疲れている様子だった(「誕生日に海ほたるに連れて行ったら虚しいって泣かれた」等)。

 その三日程後、例のラインがツイッターに載せられて驚いていた時にメンかれから通話が来て号泣していた。ただ、別れて悲しいと言っていた。私はそれより「あんなこと言って自殺しない!?ツイート死にそうだよ!?」としつこく聞いたが、「どうせいつもの死ぬ死ぬ詐欺でしょ」とその件に関しては落ち着いていた。私はその言葉がトラウマである。

 翌日か翌々日、死亡説が流れ出した。メンヘラ神が本名を載せていたので新聞のお悔やみ欄に載ったのだ。私は怖くてメンかれに聞くことが出来なかった。そんな時ちょうどメンかれからラインがきて「明日の水族館どうする?」と聞かれた。

 

(書いていて精神がしんどい…)

 

 怖すぎたので率直に「メンヘラ神無事なの?」と聞いたら「あんまり広めて欲しくないけど死んだよ」のような返事が返って来た。私はもちろん水族館をキャンセルした。そしてすごく落ち込んだ。いくら病んでいたとはいえ、知り合いの知り合いでツイートを見て環境や境遇などを知っている人が死ぬのは初めてだった。あんな人気者の彼女が死んで自分が生きている意味がわからなかった、私が代わりに死ねばよかったと思った。それくらい多感な歳だった。

 私は死ねば人々の記憶に、大切な人の記憶に残れると思っていた。それなのにメンかれは死後10日で心変わりをした。私は何もかもわからなくなったし怖かった。ODを繰り返し閉鎖病棟にぶち込まれ大事な単位を落とし親に療養を強制され退学した。だから私が人生を後悔する時、学歴を後悔するとメンかれを憎み、メンヘラ神を憎み、自分を憎む。メンヘラなんて検索に引っかかりやすい名前を使わないでいてくれたらよかった。本当にそれだけで私の人生は救われたかもしれない。他罰的で私的な恨みである。

 メンヘラ神はお金持ちで高学歴で、でも太っててブスで、何もかも正反対だったからただ境界性人格障害なこととリスカ痕を隠すのが大変なこと、それくらいしか共通点がなかった。後はメンかれ越しに聞いたことでしか彼女を知らない。人気なことだけは羨ましかったけど、憧れたことはない。メンかれが拘留された時に警官に証言として無理やり「同じ病気を抱える者として、彼の言ったことは許されないと思います」みたいなことを書かされたけれど、そんなことも思ってない。境界性人格障害の加害性やパートナーに与えるストレスも知っているからどうしようもなかったことだと思う。ただ、たまたま8階に住んでいて薬が大量にあって衝動性が起こって打ち所が悪かったから死んでしまった、そう思う。愛されたいからと男に貢ぎ、DVされ、結局確かな愛を実感しないまま死んでしまった哀れな女子大生だ。

 メンヘラ神のツイートはメンヘラに悪影響が大きかったのと、私は下品な下ネタが嫌いなので好きではなかったが、メンヘラティスカイやブログでの惹きつけられるような文章は魅力的だった。親がお金持ちなら優雅にメンヘラエッセイ二ストにでもなればよかったのにと思う。ちなみにメンかれは社会人になり結婚して、きっと幸せだろう。去年まで親交があったが彼が後悔や悲しんでいるところを一度も見たことがないので、人に弱みを見せたくない性なのだろうか。そう信じたい。そして自分に言いたい。付き合う人を選べ。

 

 

醜形恐怖症の話

 醜形恐怖症とは別名身体醜形障害で、自分の顔や身体の部位を過度に醜いと思う病気だ。私は醜形恐怖症だった。治ったのかと言われれば、不細工な写真をこの世に残したくなくてプチ整形するくらいなので、治ってないのかもしれない。でも自分のことを醜い、化け物と思っていた時よりはマシだ。これは醜形恐怖症の本に書いてあったのだが、醜形恐怖症患者は自分のことを”不細工”ではなく、”醜い”、”化け物”、”奇形”のように表現するらしい。私も自分のことをずっと醜い奇形だと思っていた。

 病気になったこれといったきっかけがあったわけではない。ただ小さい頃の私は可愛くなかった。愛嬌もなかった。私は真っ黒なうねった癖毛で、妹はさらさらな茶髪だったこともコンプレックスだった。妹は愛嬌が良かったのでどこに行ってもかわいいかわいいと言われていた。唯一私を可愛がってくれたアル中のおじいちゃんは大好きだった。

 私は子供の頃からお姫様願望とか女性性が強くて、スカートしか履かなかった。だがそれらは全部お下がりで、欲しい服を買ってもらったことがない。中学生の頃にニコラという雑誌を読み始めたけど、どの服も高くて買ってもらえなかった。母親は変に化粧品の成分こだわるタイプなので、雑誌に出てくる化粧水を買っても肌に良くない!と没収された。しかも美容院に行ったことがなく、いつも母親に切ってもらっていたので変な髪型だった。雑誌と自分のギャップの差に病んでしまったのかもしれない。中学三年生の頃には机に伏せて「自分はなんでブスで貧乏なんだ?消えてしまいたい」と思っていた。この頃からプリクラは苦痛だった。自分の不細工なプリクラをプリ帳に貼られ、他人に見せられるのが死ぬほど嫌だった。

 高校に入っても気分は沈んだままで不登校になり、たまに学校に行くときに電車に乗り、ふと携帯に自分の顔が映ると発狂して電車に飛び込みたくなった。何回も自撮りをして不細工死ねとお絵描きの加工をしていた。昔の自分の写真の顔をマッキーで塗りつぶした。しかしバイトを始めたことで少し心が晴れた。お化粧をして好きな服が買える。いっぱい働いたお金で好きなことをしている時間は幸せだった。だがこの時もプリクラに悩まされた。当時はプリクラを撮ってmixiにアップする時代。醜い私の顔がインターネットで拡散されていくと思うだけで発狂しそうだった。プリクラを撮った瞬間捨てるようになり、ついには自殺を決意した。こんな醜い顔で一生生きなきゃいけないなんて嫌だ、醜い顔はどこへでも付いて回るからもう死にたいと思った。自分の写真やプリクラを全部燃やし、6階から飛び降りようと柵を越えたがやはり怖かった。気づいた母親に引き戻されて後日精神科に連れて行かれた。受診前の聞き取りでなんで死のうとしたのか聞かれて「プリクラの顔が不細工だったから」と言ったら笑われた。期待なんかしてなかったが所詮そんなもんかと思った。その後もプリクラとの格闘が続いたが私も成長し、カラコンをいれるようになった。奥二重もアイテープをしていたら二重になり、目つきが悪くなくなった。一番自己肯定感をあげてくれたのが留年した学年だった。先輩かわいい!とみんなにちやほやされて自分が醜いという気持ちも薄れていった。そしてついにコンプレックスだった口元のほくろを取った。誰にも気づかれなかったけど私にとって整形したような気分だった。

 それから8キロ痩せ、大学でもちやほやされ銀座でホステスを始めた。そのとき襲ってきたのが摂食障害で、過食嘔吐がやめられなかった。水商売は周りに細いひとがたくさんいる。それなので食べたら吐くのだ。お腹がいっぱいになったら吐く癖はずっと続いた。実家に帰って吐けなくなっていつの間にか治った。というより不思議と食べることがストレス発散にならなくなった。水商売を辞め、比較対象がいなくなってから自分の顔を気にすることは少なくなったが、やはり同じ年代のひとがいる職場に勤めたときはだめだった。自分が顔の歪んでいる奇形に見えた。病んで退職しまたほくろをとった。今もほくろがコンプレックスなのでお金が余ればなくしたいし、醜い部分は全て消したいと思っている。でもボダが寛解すると同時に前より外見に寛容になった。上を見たらきりがないので、この程度でいいかと思えるようになった。マイナスだったのがプラマイ0になり、プラスにしたいなと思っている。

 今年も新年会で親戚に姉妹が差をつけられ、コンプレックスを持つ女の子がいっぱいいるんだなと思い書いてみた。子供の頃に自分がかわいくないと自覚するほど辛いことはないので、みんながおじさんおばさんになって親戚に姉妹がいたらぜひ平等に褒めてあげてほしい。