ストラテラ、リーマスを減薬した

 散々ツイートしているがストラテラリーマスを減薬した。ストラテラ120mg→60mg、リーマス600mg→200mg。きっかけは異常に体が重いことだった。先延ばし癖なのかと思ったがどんどん日常生活が出来なくなっていき、このままでは廃人になると思った。

 ストラテラ減薬について調べたが、まず120mgを二年以上も飲んでいる人がいなかった。そもそもストラテラは一年飲んで普通の感覚を身につけてやめるものだった。私は社会適応を重視したことからマックス処方をやめられずにいたのである。血中濃度が本格的に下がった時の衝撃はすごかった。脳内ノイズがものすごい勢いで走る。頭にたくさんのことが思い浮かぶので、一言喋るのにも1ツイートするにもリプライするにもすごく時間がかかった。たくさんのことに気付き、思い浮かぶので発言することを選ばなければならないと思った。その際に必要なのがアイデンティティだった。もし思ったことを全て発言していたら私という人格は側から見ても破綻していたと思う。ボーダーに侵されてからほとんどアイデンティティを失い、すぐにデパケンストラテラで無になった私は発病前の自分を思い出すしかなかった。とりあえず品良く生きるということだけを念頭に置いて、今は昔好きだったクラシックを聴き、耽美派作家を買い戻し、ヴェルサイユ宮殿を眺めている。

 

 以下が断薬で変わったこと一覧になる

・創意工夫が出来るようになったので問題解決が出来る、不満や不便を感じてもこうすればいいのでは?というアイディアが思いつく

・死にたいほど暇で悩んでいたが、今はやるべきことをやったり、考えたり悩んだりしているうちにあっという間に一日が終わる

・先延ばし癖がなくなった

・金銭管理が出来るようになった

・計画的に行動できるようになった

・周囲の異常に気付く(部屋が汚い等)

・食欲がなくなった

 

 ここからはマイナス面になる

・心の底から湧き出てくるような衝動性がたまにある

・働く意味がわからなくなった

・かなり疲れやすい

・ニュース等を見ると恐怖や危機感を感じる

フリック入力での誤字が激しい

・お酒が弱くなった

 

 以上のような結果である。ストラテラ120mgを飲むと悩みや不安、恐怖を全く感じなくなってしまうので後先を考えない行動をしてしまっていたのだと思う。適度な悩みも不安も恐怖も危機管理能力として必要なのだと思い知った。遠回りをしたがADHDで悩んでいた先延ばし癖も無計画も部屋の汚さも良くなった。社会適応能力がものすごく落ちてしまったのが悩みだが、あまり切羽詰まってもいないのでこれからどうするか考えていきたい。また、服薬中は死にたくなるほど暇でアルコール依存症の傾向があった。アル中病棟一歩手前だったのでほっとする。

 主治医は毎回これだけ必要か聞いてくれていたが、私は薬で無双して健常者一級になりたかったのである。痛みを感じない兵士が戦場に行ってボロボロになるような状態で私は生きていたんだと思う。普通の感覚を取り戻したが相変わらず生きるのは難しい。でも少し成長出来た気がする。

3年前の自殺未遂の後遺症

 3年前、睡眠薬を致死量飲んで三日間ぶっ倒れた。誰にも見つからないところで飲んだのだが母親に探し出され搬送された。目が覚めたら病院だったが、自殺未遂を図ったという記憶がなく、どこかで事故ったのかなと思っていた。ふと体を動かしてみると右腕がまるで動かない。指も動かない。看護師に報告し、MRICTIなどいろいろな検査をしたが脳からの神経の異常ではなかった。三日同じ姿勢で腕を圧迫し続けたので神経が麻痺したらしい。簡単に言えば「男女が添い寝をするときに男性が腕枕をすると翌朝腕が痺れている」現象の重い症状だ。時間が経てば回復するとは医師に言われたものの、絶望でいっぱいだった。人生終わった。人生終わったから自殺しようとしたのにさらに人生が終わってしまった。それから半年間は腕の痛みとの闘いだった。神経痛が右腕に

一日中走り続け、夜は眠れないし朝起きれば腕の重みにぐったりする。最悪だったのが、肩を脱臼したことだ。力の入らない腕の重みに耐えきれず肩が抜けた。激痛だった。精神の痛みを薬で麻痺させることに慣れきっていた私は、鎮痛薬にも限界があるということを学んだ。退院後も数ヶ月は骨折した人のような状態で生活していた。もちろんお風呂には一人で入れないので、入院中は介護士さんに、帰宅してからは母親に頭を洗ってもらっていた。だいぶ良くなりリハビリに通い出したが、これもまた苦痛だった。握力が10しかないのに重いものを持たされて30回持ち上げましょうの状態を想像してもらえればだいたい合っている。そんな一年を乗り越え、日常生活には支障が無い程度に良くなった。

 ここからが本題である。麻痺の影響で失った趣味への未練だ。アイデンティティが希薄でありながらもこだわりもある程度あった。例えば私はピアスが大好きだった。ピアスをたくさん集めていたし、勝負どころでとても大事にしていたものだ。だけれど、一人でつけることが出来なくなってからピアスをつける習慣がなくなった。もう一つは読書だ。紙をめくるというのは麻痺している手には非常に億劫だ。どんどん本の読み方を忘れ、導入だけでだるくなってしまうのだ。最後にピアノ。自殺未遂をする前に最後に目指していたのがピアノの先生だった。ピアノが精神を救ってくれたかといえばそうではないが、私には欠かせないものだった。無邪気にピアノを楽しんで弾く人をみると憎くて堪らなくなる。私が今ピアノを弾いて持つ感情は、昔だったらもっと上手に弾けたのに、という悔しさだ。簡単なオクターブのない曲を弾いてもわかる人にはわかってしまう。左と右のタッチが全く違うこと。完全に自己満足で弾くしかないが、自己満足にすら至らないのだからとても辛い。

 身体の障害は単に不自由なだけではなく、精神の自由まで失ってしまうのだと最近思う。未遂以前のことばかり思い出す。あの頃も死にたくて仕方がなかったのに、あの頃の方が自由で、充実していて、輝いていた気がする。思い出はいつの日も美しく映るもの、と言ったらそうでしかないのだが。後遺症を負わないように完遂しろ!とも言わない。自殺するな!とも言わない。だけれども、こんな自業自得などうしようもない苦悩を持っている人がいるということを知ってほしかった。

 皆さま、どうかご自愛ください。

私の醜形恐怖症の話

 醜形恐怖症とは別名身体醜形障害で、自分の顔や身体の部位を過度に醜いと思う病気だ。私は醜形恐怖症だった。治ったのかと言われれば、不細工な写真をこの世に残したくなくてプチ整形するくらいなので、治ってないのかもしれない。でも自分のことを醜い、化け物と思っていた時よりはマシだ。これは醜形恐怖症の本に書いてあったのだが、醜形恐怖症患者は自分のことを”不細工”ではなく、”醜い”、”化け物”、”奇形”のように表現するらしい。私も自分のことをずっと醜い奇形だと思っていた。

 病気になったこれといったきっかけがあったわけではない。ただ小さい頃の私は可愛くなかった。愛嬌もなかった。私は真っ黒なうねった癖毛で、妹はさらさらな茶髪だったこともコンプレックスだった。妹は愛嬌が良かったのでどこに行ってもかわいいかわいいと言われていた。唯一私を可愛がってくれたアル中のおじいちゃんは大好きだった。

 私は子供の頃からお姫様願望とか女性性が強くて、スカートしか履かなかった。だがそれらは全部お下がりで、欲しい服を買ってもらったことがない。中学生の頃にニコラという雑誌を読み始めたけど、どの服も高くて買ってもらえなかった。母親は変に化粧品の成分こだわるタイプなので、雑誌に出てくる化粧水を買っても肌に良くない!と没収された。しかも美容院に行ったことがなく、いつも母親に切ってもらっていたので変な髪型だった。雑誌と自分のギャップの差に病んでしまったのかもしれない。中学三年生の頃には机に伏せて「自分はなんでブスで貧乏なんだ?消えてしまいたい」と思っていた。この頃からプリクラは苦痛だった。自分の不細工なプリクラをプリ帳に貼られ、他人に見せられるのが死ぬほど嫌だった。

 高校に入っても気分は沈んだままで不登校になり、たまに学校に行くときに電車に乗り、ふと携帯に自分の顔が映ると発狂して電車に飛び込みたくなった。何回も自撮りをして不細工死ねとお絵描きの加工をしていた。昔の自分の写真の顔をマッキーで塗りつぶした。しかしバイトを始めたことで少し心が晴れた。お化粧をして好きな服が買える。いっぱい働いたお金で好きなことをしている時間は幸せだった。だがこの時もプリクラに悩まされた。当時はプリクラを撮ってmixiにアップする時代。醜い私の顔がインターネットで拡散されていくと思うだけで発狂しそうだった。プリクラを撮った瞬間捨てるようになり、ついには自殺を決意した。こんな醜い顔で一生生きなきゃいけないなんて嫌だ、醜い顔はどこへでも付いて回るからもう死にたいと思った。自分の写真やプリクラを全部燃やし、6階から飛び降りようと柵を越えたがやはり怖かった。気づいた母親に引き戻されて後日精神科に連れて行かれた。受診前の聞き取りでなんで死のうとしたのか聞かれて「プリクラの顔が不細工だったから」と言ったら笑われた。期待なんかしてなかったが所詮そんなもんかと思った。その後もプリクラとの格闘が続いたが私も成長し、カラコンをいれるようになった。奥二重もアイテープをしていたら二重になり、目つきが悪くなくなった。一番自己肯定感をあげてくれたのが留年した学年だった。先輩かわいい!とみんなにちやほやされて自分が醜いという気持ちも薄れていった。そしてついにコンプレックスだった口元のほくろを取った。誰にも気づかれなかったけど私にとって整形したような気分だった。

 それから8キロ痩せ、大学でもちやほやされ銀座でホステスを始めた。そのとき襲ってきたのが摂食障害で、過食嘔吐がやめられなかった。水商売は周りに細いひとがたくさんいる。それなので食べたら吐くのだ。お腹がいっぱいになったら吐く癖はずっと続いた。実家に帰って吐けなくなっていつの間にか治った。というより不思議と食べることがストレス発散にならなくなった。水商売を辞め、比較対象がいなくなってから自分の顔を気にすることは少なくなったが、やはり同じ年代のひとがいる職場に勤めたときはだめだった。自分が顔の歪んでいる奇形に見えた。病んで退職しまたほくろをとった。今もほくろがコンプレックスなのでお金が余ればなくしたいし、醜い部分は全て消したいと思っている。でもボダが寛解すると同時に前より外見に寛容になった。上を見たらきりがないので、この程度でいいかと思えるようになった。マイナスだったのがプラマイ0になり、プラスにしたいなと思っている。

 今年も新年会で親戚に姉妹が差をつけられ、コンプレックスを持つ女の子がいっぱいいるんだなと思い書いてみた。子供の頃に自分がかわいくないと自覚するほど辛いことはないので、みんながおじさんおばさんになって親戚に姉妹がいたらぜひ平等に褒めてあげてほしい。

眩しい世界をもう一度愛したい

 メンヘラが発症してから何年経っただろう。数えるのも面倒くさいくらい歳をとった。自傷、恋愛依存は治って自殺未遂で救急搬送されることも減ったが、睡眠障害双極性障害は治らない。

 高校、大学時代は病みながらもそれなりに友達がいたのだが、健常者の友達に辛いときに辛いと言えない。私がパニック発作起こしながらへろへろで学校に到着すると、友達はずっと昨日の飲み会の話をしている。病気で出来ないことをクズキャラのふりをしてヘラヘラしてしまう。それが一種のトラウマになり、大学を中退してからは健常者の友達と一切会わなくなった。無職だったので合わせる顔もなかった。

 必然的に会うのはツイッターのメンヘラだけ。お薬パーティーをしてお酒とブロンを一気しながらみんなでスニッフ、脱法ハーブのお店でハーブを買ってから満喫でキメる。ろくなことをしなかった。辛いからってやっていいことと悪いことがあるんだよ!と当時の自分に言いたい。

 メンヘラ芸でフォロワーが増えていった私はアルファの人たちとも関わるようになる。結論、アルファはたいていやばい。ゴキブリで家を崩壊させるのはまだかわいい方で、法を犯しちゃうとやばい。実際私のツイッターで出会った彼氏は覚せい剤所持で逮捕された。そんな世界にいたのでますます一般人と会えなくなる。だって話題が警察、自殺、逮捕、閉鎖病棟入院、そんなことしか話せない。しかも無職だし(二回目)。

 そんな中で私の人間関係構築を変えたのは、無職メンヘラヤク中ギャンブル依存借金癖の彼氏だった。穏やかに付き合っていたものの別れ際が最悪だった。簡単に言うとママと喧嘩したから自殺する!死亡保険でお金返す!みたいなかんじだった。まず自殺で生命保険は降りない。そんなことも知らないの!?とドン引いた。そして元カレが本当に自殺したことがある私としては、自殺を仄めかす発言はトラウマが蘇って辛かった。一番許せなかったのは心配して大丈夫?と聞いたら「ママと仲直りしたから平気!」だった。ブチギレて別れた。

 付き合っていたときに「お互いそろそろ働かなきゃね〜」と話していたし、一人暮らしして同棲したかったので、私は別れたその日初めてハローワークに行っていた。いくらクズでも好きな部分もあったので、寂しい気持ちを全力で就活してごまかした。正社員にはなれなかったけど、なんとかパートとして働き始めることができた。働くのなんて二年ぶりくらいだった。

 そして正月に高校の同窓会に誘われた。話すネタ(仕事)が出来て社会のこともなんとなくわかった私は、本当に久しぶりに健常者に会うことが出来た。みんな優しく受け入れてくれた。昔に比べたら症状も良くなっていたので、辛いのを我慢してではなく純粋に楽しめた。それからはよく同級生たちと遊ぶようになって、逆にメンヘラと遊ばなくなった。私はもうそこまで死にたくないからメンヘラに「死にたいよねー」と言われても「うんそうだね〜(棒)」になってしまうのだった。あと単純に事件に巻き込まれたくない。

 健常者の友達と遊ぶようになって、みんなみたいに正社員で働きたい!キラキラしたい!という思いが強くなった。もう事件ばかり起こるどろどろした世界は嫌だ、普通の世界で生きたい、普通になりたい。そんな思いでこの一年頑張ってきた。まさにタイトルのような心境である。転職活動して12回面接で落とされて心が折れたので、妥協してまたパートで働いた。半年続いた。最初の一ヶ月は慣れない環境が苦しくて、不眠に不眠が続き、鬱状態になって電車に飛び出した。それでも頑張って続けた。

 ところが、わりと普通になったところで私が変わったと思うのは”流行の服を買えるようになる”だけだった。職歴も出来たし友達も増えた。でも私の気持ちをわくわくさせるような変化は”流行の服を変えるようになった”だけだった。無職なときは暇だったから働いたけど、働いていても退屈だった。職種柄のせいなのかもしれないが、仕事って私にとっては虚しいし退屈なのである。生活保護になってもブラック会社で働いても心の根底は変わらない気がしてしまう。何も満たされずにただ時間が過ぎて行くという点では一緒だと思う。

 服は良い。買ったばかりのかわいい服を着てお気に入りのリップをつけると、生きていることが少し楽しくなる。羽が生えたような軽い足取りで仕事に行くことができる。私の好きな服のブランドは少し高くて、無職じゃ一年に二、三着か、中古でしか買えない。安いぼろぼろの服を着てたら気分も沈む。そして流行の服を身につけていると、私は普通の人と同じ時の流れの中にいるんだ、引きこもって時が止まってた時とは違うんだ、と心底安心するのである。だから、私は来年も流行の服を買うためだけに働きたい。