私の高校留年生活と「学校が嫌なら逃げろ」という風潮についての話

 「学校が嫌なら逃げろ」という風潮が最近あり、逃げ続けた結果、7年間もの引きこもりになったというネットニュースを見て考えさせられるものがあった。私は高校不登校のち留年か通信か迷った末留年生活を送ったので、体験談と持論を語ろうと思う。

 前置きとして私の通っていた高校は普通の高校と違って単位制だった。クラスは三年間一緒だが、理系、文系、芸術系等別れていて一年目の必修が終われば皆ばらばらの授業を受けるようになる。大学のように一年目に沢山単位を取れば三年目は時間が空くわけではなく、受ける授業が選択制であるだけだ。

 入学前の3月から病み続け、引きこもり続けていた私だが、入学しても当然うまく行くはずもなく、見知らぬ人だらけなのがとても怖くて、今日だけ休もうが続き不登校になった。他の要因を考えれば吹奏楽部の勧誘がしつこく、嫌嫌入ったものの一週間で辞めた居づらさがあったかもしれない。学校専属のカウンセラーにカウンセリングを受けたが、特に人間関係に問題があるわけでもいじめられてるわけでもなく、単に人が怖く、クラスの雰囲気が嫌なだけだったので解決しようがなかった。担任も今考えても頼りげのない人だった。とても憂鬱な気持ちで、今までただ「消えたい」と思っていた程度が「今飛び込んだら死ねるかな」と自殺まで考えるようになった。また、醜形恐怖症も酷く通学中の電車でスマホが暗転した時に写る自分の顔を見て何度も発狂しそうになった。それでもぼちぼち通っているうちに6月頃に気の合う友達が出来た。その子も合唱部をすぐに辞めていて帰宅部だった。「うちのクラスはみんな真面目すぎてありえない」そんな話をよくした。だんだん学校に行けるようになったものの、夏休みを過ぎればまた行けなくなり引きこもった。

 9月の文化祭でまた疎外感を感じ、完全に学校に行かなくなった。その代わり10月から飲食店でアルバイトを始めた。その頃ビジュアル系バンドにハマっていたのでとにかくライブに行くお金が欲しかったのだ。上記の友達も土日には遊びに誘ってくれてよくカラオケに行った。12月には高校を辞めてすぐ近くの通信制高校に行く予定だったが2月に転機が訪れた。本当にしょうもない話だが大好きなバンドマン(偽物か本物かわからない)とメールをするようになり、返事は一日一回くらい、とにかく返事が欲しかった。何か良い行いをすれば叶うんじゃないか?そんな安易な気持ちで久しぶりに学校に行った。アルバイト経験で少しメンタルが強くなっていたせいか苦しくなかった。クラスの人たちが受け入れてくれたので、出席数が足りなく留年が決まっていたが「みんなと修学旅行に行きたい!」と思い、留年の道を選んだ。

 留年の方法は二つあり、クラスに所属したまま下の学年の授業を受けに行くか、完全に下の学年のクラスに移るかだった。私は入学時のクラスに残る方を選んだ。ここからが戦いだった。突然クラス外の人間が授業に入ってきたら皆驚くのも注目を浴びるのもわかっていた。それなので私は「隠キャな留年している先輩なんて絶対に思われないようにしよう」と変な意地を張り、毎日薄メイクに髪を巻いて授業に出た。結果的に”なぜか留年してる雰囲気可愛い先輩”になりきれたと思う。一年目に取れた単位もあったので休み時間も一人行動で色んな教室に飛び回った。それでも「絶対ぼっちで可哀想な人に見られたくない」と意地を張り、私は孤独ではなく孤高なんだと思い込んで物怖じせず振舞っていた。鬼門だったのは体育の授業で、私の学年は赤ジャージ、下の学年は青ジャージだった。青ジャージを買うかと担任に聞かれたが、また変な意地を張って買わなかった。流石に最初の授業の時に全員が集まってる中「おい、お前なんで赤ジャーなんだ」とマイクで言われ、同日に上履きを隠されたときは泣いた。上履きを隠されたというといじめられていたような語弊が生まれるが、いじめではなく誰かの私怨だったと思う。むしろクラスの人たちは放課後みんなで上履きを探してくれたので、優しさを感じて嬉しかった。

 留年するに至って「一人で生きる作戦」というものを作った。ひとりで楽しめるものを見つけ楽しもうという作戦だ。その一環として図書室にしょっちゅう通った。その時の私にとって本はとても楽しかった。恩田陸乙一のような読みやすい本から読み始め、嶽本野ばらに出会った。嶽本野ばらの作品には孤高に生きる少女がよく描かれており、私もこんな風に生きたいと、とても励みになった。そこから耽美派ロココ調に派生して、三島由紀夫澁澤龍彦を読み、ロココ時代の詳しい資料を読み漁り、そこからまた気になる王朝を調べたりして充実していた。今思えば揃えの良い図書館だった。

 しかし、なかなか毎日通うのは難しかった。ひとり浮いていることに気疲れしていたし、その頃から持病の躁鬱の傾向があったのだろう。授業を欠席すると必然的にノートが取れなくなるので見知らぬ人にノートをよく貸してもらった。また、忘れ物が激しいのも悩みで、教科書、ノート、プリント、宿題、何か一つ忘れるのだ。そしてまた見知らぬ人に見せてもらう。今私が持っている上辺だけのコミュ力はこの頃ついたのかもしれない。勉強には数学の赤点以外なに一つ不自由しなかった。何より休み時間に気を張っているより授業に没頭している時間の方が楽しかったのだ。元来、私は勉強するのが好きだった。

 三年目になると一年目に取れた単位分空白の時間が週に二時間ほど空くので、教室を一つ借りて、だいたい終わらなかった宿題をやっていた。でも見張りはいないので勝手に図書室に行ったり、寝たり好き勝手していた。あの不思議な時間を味わった高校生はなかなかいないと思う。

 四年目が一番問題だった。一つ下の学年のよく授業に行っていたクラスに入り、グループにも入れてもらい、揉め合いに揉まれながらも楽しくやっていたのだが、私の孤独感も見栄を張るのも限界だった。クラスのチャラ男に引っかかり、そのまた後に学年一というか学年唯一のDQNに引っかかり、交際してはちゃめちゃになった。そのDQN彼氏も私のように出席日数が危うく、赤点ばかりとっていて卒業が危ぶまれていた。しかし、彼はしょっちゅうサボろうとか途中で帰っちゃおうとか言うのである。バイクで三日くらい旅に出て、親に学校に通報されたこともあった。それでも三年の孤独と気が張り詰めていたのが解けて、彼にものすごく依存した。それから二股という裏切りに遭い、ドロドロの共依存になり私は境界性人格障害を発症して勉強に手がつかなくなりいくつか赤点を出したが、メンタルクリニックに通っていたので診断書で卒業した。卒業式も出なかった。

 進路にも問題が生まれた。「どうせ入学する頃には死んでるからいいや」と思い何も考えずに学費が馬鹿高く、馬鹿みたいに遠い大学に自己推薦で入った。人生の後悔の一つである。馬鹿みたいに遠い大学に毎日通えるはずもなく、メンタルもぼろぼろで結果的に三年目で中退した。

 ここで冒頭に戻り「学校が嫌なら逃げろ」の是非だ。正直、どちらとも言えない。就活しているとせめて高卒でよかったと思うこともある。また、逆境の中卒業出来たことは私の成功体験の一つだ。そこそこ進学校なだけありまともな教育も受けられたと思う。本に出会えたのも大切なことであるし、今でも仲良く出来る友達も出来た。でも、もしあの時に通信に転校して自由にアルバイトをして好きなことを楽しみ、緊張感のない、自由な毎日を過ごしていたらどうなったのだろうか。私は自律心がないので通信の課程を終えられたかも不明であるが、通信から立派な大学へ進学する人もいくらでもいる。また、高校卒業認定試験というものもあり、高卒資格をとってから大学へ行くことも可能だ。金銭面を考えれば奨学金で学費が馬鹿高い大学に入ったのは大きな過ちだった。未だに奨学金は返済し切れていない。高校卒業認定を取ってから大学に入り、辞めてしまった人も見たことがあるし、私のように朝起きれない人が賢く通信から日東駒専レベルの夜間に入り、うまくやっているのを見たこともある。そう考えると選択肢は無限にあり、また失敗してしまう可能性も無限にあるのだ。高校不登校の原因が一時的なものなのか、発達障害精神障害のような長く付き合う病気なのかもわからないことが多いだろう。私は4年目で発症した境界性人格障害は遅かれ早かれ発症していたと思う。通信に行っても高校卒業認定をとっても、大学で、またはアルバイト先で、どこかで必ず発症したはずだ。ただ大きな問題は進路選択時の未来をきちんと考えられる精神力がなかったということだ。社会生活において学歴はとても大切なものだが同時にお金もとても大切で、軽々しく考えてはいけないことだと私はわからなかった。軽くまとめれば、高校は続けてよかったが、精神力低下時のサポート不足だったため進路選択に影響が及んだ。境界性人格障害発症時にかかった医者は、特に心に語りかけることもなく淡々と薬を出すだけだった。両親の意思も影響するだろうがそこは個人の問題なので伏せよう。

 結論的に、高校から逃げても逃げなくても、精神的なサポートを行い、前向きに人生を歩めるように導くことが親、周囲の務めであり出来ることだと思う。安易に「逃げろ」と言って別の道を歩ませても精神的な問題は再発することが多いので、どこかで躓くだろう。そんな時に支えてくれる人がいることが理想だが、現実はそうじゃない場合も多い。しかし、今はネットワークが盛んだ。色んな道を模索することが出来るしお手本を見つけることも出来る。そして良い精神科の見分け方が紹介されているサイトもあればカウンセリングも気軽に受けられる。気持ちが落ち込んでいたり自暴自棄になっている間はそういったものを受け容れ難いだろうが、ふと我に返った時、気持ちが落ち着いた時に考えてみるといいと思う。不登校経験者としてひとりでも後悔しないような、後悔しても立ち直れるような道を選べる人が増えたら私も嬉しい。

3年前の自殺未遂の後遺症

 3年前、睡眠薬を致死量飲んで三日間ぶっ倒れた。誰にも見つからないところで飲んだのだが母親に探し出され搬送された。目が覚めたら病院だったが、自殺未遂を図ったという記憶がなく、どこかで事故ったのかなと思っていた。ふと体を動かしてみると右腕がまるで動かない。指も動かない。看護師に報告し、MRICTIなどいろいろな検査をしたが脳からの神経の異常ではなかった。三日同じ姿勢で腕を圧迫し続けたので神経が麻痺したらしい。簡単に言えば「男女が添い寝をするときに男性が腕枕をすると翌朝腕が痺れている」現象の重い症状だ。時間が経てば回復するとは医師に言われたものの、絶望でいっぱいだった。人生終わった。人生終わったから自殺しようとしたのにさらに人生が終わってしまった。それから半年間は腕の痛みとの闘いだった。神経痛が右腕に

一日中走り続け、夜は眠れないし朝起きれば腕の重みにぐったりする。最悪だったのが、肩を脱臼したことだ。力の入らない腕の重みに耐えきれず肩が抜けた。激痛だった。精神の痛みを薬で麻痺させることに慣れきっていた私は、鎮痛薬にも限界があるということを学んだ。退院後も数ヶ月は骨折した人のような状態で生活していた。もちろんお風呂には一人で入れないので、入院中は介護士さんに、帰宅してからは母親に頭を洗ってもらっていた。だいぶ良くなりリハビリに通い出したが、これもまた苦痛だった。握力が10しかないのに重いものを持たされて30回持ち上げましょうの状態を想像してもらえればだいたい合っている。そんな一年を乗り越え、日常生活には支障が無い程度に良くなった。

 ここからが本題である。麻痺の影響で失った趣味への未練だ。アイデンティティが希薄でありながらもこだわりもある程度あった。例えば私はピアスが大好きだった。ピアスをたくさん集めていたし、勝負どころでとても大事にしていたものだ。だけれど、一人でつけることが出来なくなってからピアスをつける習慣がなくなった。もう一つは読書だ。紙をめくるというのは麻痺している手には非常に億劫だ。どんどん本の読み方を忘れ、導入だけでだるくなってしまうのだ。最後にピアノ。自殺未遂をする前に最後に目指していたのがピアノの先生だった。ピアノが精神を救ってくれたかといえばそうではないが、私には欠かせないものだった。無邪気にピアノを楽しんで弾く人をみると憎くて堪らなくなる。私が今ピアノを弾いて持つ感情は、昔だったらもっと上手に弾けたのに、という悔しさだ。簡単なオクターブのない曲を弾いてもわかる人にはわかってしまう。左と右のタッチが全く違うこと。完全に自己満足で弾くしかないが、自己満足にすら至らないのだからとても辛い。

 身体の障害は単に不自由なだけではなく、精神の自由まで失ってしまうのだと最近思う。未遂以前のことばかり思い出す。あの頃も死にたくて仕方がなかったのに、あの頃の方が自由で、充実していて、輝いていた気がする。思い出はいつの日も美しく映るもの、と言ったらそうでしかないのだが。後遺症を負わないように完遂しろ!とも言わない。自殺するな!とも言わない。だけれども、こんな自業自得などうしようもない苦悩を持っている人がいるということを知ってほしかった。

 皆さま、どうかご自愛ください。

メンヘラ神の話

 なぜか最近メンヘラ神が再燃していて質問箱でお題をいただいたので書くことにした。よく考えて見れば事情聴取で話していた気になっていてツイートしていなかったのかもしれないし、そんなの聞き飽きたよという人もいるかもしれない。昔ブログを書いたような気もしてきた。各自で読む読まないを決めてくれればいいと思う。

 初めてメンヘラ神を知ったのはツイッターで”メンヘラ”とパブサした時だった。私はもちろん病んでいたので、メンヘラなのにこんなに楽しそうに生きてる人がいるんだ!と驚いた。実際は全く楽しくなかったのかもしれないが、メンヘラ神の言う”面白おかしく”書かれているので楽しそうに見えたのだ。メンヘラ神とその彼氏、メンかれをリア垢からフォローした。私はリア垢でもかなり病んでぶっ飛んでいたのでメンかれからフォロバをもらい、何回かリプライを交わすうちに私もちゃんとしたメンヘラアカウントが欲しいと思い、メンヘラアカウント”ぞんびちゃん”を作った。それが終わりの始まり。

 新しいメンヘラアカウントで相互が出来てコミュニティが出来てグループラインを作ってわいわいやっていた頃だと思う。メンかれにオフ会に誘われた。メンヘラ神の写真を見せてもらったけど可愛くなかった。よく覚えていないけれど本当に可愛くなかったしメンかれもそれは言っていた。私はよくメンヘラ神が〜ってツイートしてたけど本当!?みたいなことをよく聞いたのだが大抵「わからない」と言っていた。後々、虚言癖らしかったことを聞かされる。半同棲しているのにそんなにわからないことだらけなんだというのが感想だった。あとは特に大した話はしていない。メンかれは結構人見知りだったので無口だった。

 次の日、メンヘラ神が別れましたとツイートしていた。まああの様子じゃ続かなそうだし仲良く別れたみたいだからよかったなと思った。フォロワーを絞った鍵垢でメンかれはほとほとメンヘラ神に疲れている様子だった(「誕生日に海ほたるに連れて行ったら虚しいって泣かれた」等)。

 その三日程後、例のラインがツイッターに載せられて驚いていた時にメンかれから通話が来て号泣していた。ただ、別れて悲しいと言っていた。私はそれより「あんなこと言って自殺しない!?ツイート死にそうだよ!?」としつこく聞いたが、「どうせいつもの死ぬ死ぬ詐欺でしょ」とその件に関しては落ち着いていた。私はその言葉がトラウマである。

 翌日か翌々日、死亡説が流れ出した。メンヘラ神が本名を載せていたので新聞のお悔やみ欄に載ったのだ。私は怖くてメンかれに聞くことが出来なかった。そんな時ちょうどメンかれからラインがきて「明日の水族館どうする?」と聞かれた。

 

(書いていて精神がしんどい…)

 

 怖すぎたので率直に「メンヘラ神無事なの?」と聞いたら「あんまり広めて欲しくないけど死んだよ」のような返事が返って来た。私はもちろん水族館をキャンセルした。そしてすごく落ち込んだ。いくら病んでいたとはいえ、知り合いの知り合いでツイートを見て環境や境遇などを知っている人が死ぬのは初めてだった。あんな人気者の彼女が死んで自分が生きている意味がわからなかった、私が代わりに死ねばよかったと思った。それくらい多感な歳だった。

 私は死ねば人々の記憶に、大切な人の記憶に残れると思っていた。それなのにメンかれは死後10日で心変わりをした。私は何もかもわからなくなったし怖かった。ODを繰り返し閉鎖病棟にぶち込まれ大事な単位を落とし親に療養を強制され退学した。だから私が人生を後悔する時、学歴を後悔するとメンかれを憎み、メンヘラ神を憎み、自分を憎む。メンヘラなんて検索に引っかかりやすい名前を使わないでいてくれたらよかった。本当にそれだけで私の人生は救われたかもしれない。他罰的で私的な恨みである。

 メンヘラ神はお金持ちで高学歴で、でも太っててブスで、何もかも正反対だったからただ境界性人格障害なこととリスカ痕を隠すのが大変なこと、それくらいしか共通点がなかった。後はメンかれ越しに聞いたことでしか彼女を知らない。人気なことだけは羨ましかったけど、憧れたことはない。メンかれが拘留された時に警官に証言として無理やり「同じ病気を抱える者として、彼の言ったことは許されないと思います」みたいなことを書かされたけれど、そんなことも思ってない。境界性人格障害の加害性やパートナーに与えるストレスも知っているからどうしようもなかったことだと思う。ただ、たまたま8階に住んでいて薬が大量にあって衝動性が起こって打ち所が悪かったから死んでしまった、そう思う。愛されたいからと男に貢ぎ、DVされ、結局確かな愛を実感しないまま死んでしまった哀れな女子大生だ。

 メンヘラ神のツイートはメンヘラに悪影響が大きかったのと、私は下品な下ネタが嫌いなので好きではなかったが、メンヘラティスカイやブログでの惹きつけられるような文章は魅力的だった。親がお金持ちなら優雅にメンヘラエッセイ二ストにでもなればよかったのにと思う。ちなみにメンかれは社会人になり結婚して、きっと幸せだろう。去年まで親交があったが彼が後悔や悲しんでいるところを一度も見たことがないので、人に弱みを見せたくない性なのだろうか。そう信じたい。そして自分に言いたい。付き合う人を選べ。

 

 

醜形恐怖症の話

 醜形恐怖症とは別名身体醜形障害で、自分の顔や身体の部位を過度に醜いと思う病気だ。私は醜形恐怖症だった。治ったのかと言われれば、不細工な写真をこの世に残したくなくてプチ整形するくらいなので、治ってないのかもしれない。でも自分のことを醜い、化け物と思っていた時よりはマシだ。これは醜形恐怖症の本に書いてあったのだが、醜形恐怖症患者は自分のことを”不細工”ではなく、”醜い”、”化け物”、”奇形”のように表現するらしい。私も自分のことをずっと醜い奇形だと思っていた。

 病気になったこれといったきっかけがあったわけではない。ただ小さい頃の私は可愛くなかった。愛嬌もなかった。私は真っ黒なうねった癖毛で、妹はさらさらな茶髪だったこともコンプレックスだった。妹は愛嬌が良かったのでどこに行ってもかわいいかわいいと言われていた。唯一私を可愛がってくれたアル中のおじいちゃんは大好きだった。

 私は子供の頃からお姫様願望とか女性性が強くて、スカートしか履かなかった。だがそれらは全部お下がりで、欲しい服を買ってもらったことがない。中学生の頃にニコラという雑誌を読み始めたけど、どの服も高くて買ってもらえなかった。母親は変に化粧品の成分こだわるタイプなので、雑誌に出てくる化粧水を買っても肌に良くない!と没収された。しかも美容院に行ったことがなく、いつも母親に切ってもらっていたので変な髪型だった。雑誌と自分のギャップの差に病んでしまったのかもしれない。中学三年生の頃には机に伏せて「自分はなんでブスで貧乏なんだ?消えてしまいたい」と思っていた。この頃からプリクラは苦痛だった。自分の不細工なプリクラをプリ帳に貼られ、他人に見せられるのが死ぬほど嫌だった。

 高校に入っても気分は沈んだままで不登校になり、たまに学校に行くときに電車に乗り、ふと携帯に自分の顔が映ると発狂して電車に飛び込みたくなった。何回も自撮りをして不細工死ねとお絵描きの加工をしていた。昔の自分の写真の顔をマッキーで塗りつぶした。しかしバイトを始めたことで少し心が晴れた。お化粧をして好きな服が買える。いっぱい働いたお金で好きなことをしている時間は幸せだった。だがこの時もプリクラに悩まされた。当時はプリクラを撮ってmixiにアップする時代。醜い私の顔がインターネットで拡散されていくと思うだけで発狂しそうだった。プリクラを撮った瞬間捨てるようになり、ついには自殺を決意した。こんな醜い顔で一生生きなきゃいけないなんて嫌だ、醜い顔はどこへでも付いて回るからもう死にたいと思った。自分の写真やプリクラを全部燃やし、6階から飛び降りようと柵を越えたがやはり怖かった。気づいた母親に引き戻されて後日精神科に連れて行かれた。受診前の聞き取りでなんで死のうとしたのか聞かれて「プリクラの顔が不細工だったから」と言ったら笑われた。期待なんかしてなかったが所詮そんなもんかと思った。その後もプリクラとの格闘が続いたが私も成長し、カラコンをいれるようになった。奥二重もアイテープをしていたら二重になり、目つきが悪くなくなった。一番自己肯定感をあげてくれたのが留年した学年だった。先輩かわいい!とみんなにちやほやされて自分が醜いという気持ちも薄れていった。そしてついにコンプレックスだった口元のほくろを取った。誰にも気づかれなかったけど私にとって整形したような気分だった。

 それから8キロ痩せ、大学でもちやほやされ銀座でホステスを始めた。そのとき襲ってきたのが摂食障害で、過食嘔吐がやめられなかった。水商売は周りに細いひとがたくさんいる。それなので食べたら吐くのだ。お腹がいっぱいになったら吐く癖はずっと続いた。実家に帰って吐けなくなっていつの間にか治った。というより不思議と食べることがストレス発散にならなくなった。水商売を辞め、比較対象がいなくなってから自分の顔を気にすることは少なくなったが、やはり同じ年代のひとがいる職場に勤めたときはだめだった。自分が顔の歪んでいる奇形に見えた。病んで退職しまたほくろをとった。今もほくろがコンプレックスなのでお金が余ればなくしたいし、醜い部分は全て消したいと思っている。でもボダが寛解すると同時に前より外見に寛容になった。上を見たらきりがないので、この程度でいいかと思えるようになった。マイナスだったのがプラマイ0になり、プラスにしたいなと思っている。

 今年も新年会で親戚に姉妹が差をつけられ、コンプレックスを持つ女の子がいっぱいいるんだなと思い書いてみた。子供の頃に自分がかわいくないと自覚するほど辛いことはないので、みんながおじさんおばさんになって親戚に姉妹がいたらぜひ平等に褒めてあげてほしい。

私の発達障害の話

 ツイッターでは発達障害界隈なんてものが出来て、コンサータを処方されたら優勝!のような流れがあるが、私も発達障害である。診断はADHDの不注意優位型だ。

 私は子供の頃から父親にとにかくトロいと怒られていた。自覚はないのだが、動作も喋り方もトロいらしい。「おっとりしてるね」とよく言われる。ADD(不注意優位型)の特徴だというのはつい最近知った。いまでは「おっとりしてるね」と言われても嬉しくなくなってしまった。ADDの証なのだから。おっとりした喋り方は社会的にも不利だ。面接で聞かれたことがあるのは「人前で話すこともありますがそのときはハキハキ喋れますか?」「電話を出るときは話し方変わりますか?」「おっとりしてますが忙しい仕事についていけますか?」など。私的には普通に、というか面接なのでハキハキ喋っているつもりだった。なのにこの言われようは泣けてくる。この喋り方が原因で社会的に使えないと思われて、何社も落とされているのかもしれないと思うととても辛い。

 際立って異常なのは部屋が片付けられないことだ。小学生の頃から机の中身が汚い。高校生になってもロッカーの中身が汚い。部屋は一人暮らしを始めてから散々なことになった。来訪者があるときは必死に片付けてそれなりにインテリアにもこだわっていたが、鬱になって二週間引きこもったりするともう酷い。ベッドの上だけは寝れるように綺麗にしているのだが、ベッドまでゴミに浸食されたので丸まって寝ていた。なんでゴミを捨てなかったのかはわからない。言い訳をすると、知能検査で私は空間把握能力が乏しいと言われた。運転したら即事故るやつだ(免許は持っていない)。立体感が掴めないんだと思う。物を見つけ出すのが難しいと検査結果に書かれていたし、実際家でも「○○どこ〜!?」芸人だ。あと、汚い部屋を汚いと認識出来ない。生活に支障が出始めてからようやく不快感を感じて片付けなければと思う。コンサータはすごい。飲んだら散らかってるものが気になってすぐに片付けることが出来た。でも薬効が切れた瞬間また散らかし始めたから意味がなかったし、副作用が酷くてやめた。ストラテラを飲みながら部屋を片付けるときだけコンサータを飲めないか、今度主治医に相談してみようと思う。

 そんな汚部屋住人だが一度だけ部屋の綺麗を保てた時期があった。流行になった本、”人生がときめく片付けの魔法”を試しに中古で買って読んでみたのだ。最後までは読んでいないけどとにかく断捨離!と書いてあるのを受けて、物を捨てまくった。そうしたらなんと散らかる物自体がなくなったので部屋の綺麗を保てるようになったのだ。ちなみに今はもうだめ。働いて大量に浪費したから物が溢れている。

 私の父親も父型の祖母も汚部屋住民だ。父親とは別居してるが母親は父親の家に全く行かない。とんでもなく汚くて畳にウジ虫がいるらしい。ひとりで3LDKに住んでどうしてそうなるのかわからない。祖母は酷かった。一軒家をまるまる潰した。一度片付けに行ったけど足の膝辺りまで雑誌やら本やらが積んであって、歩くところだけ層が薄くなっている。雪道みたいな。二階は上がれなかった。何があったのかわからないけど、ハウスクリーニングではどうにもならなかったので取り壊された。衝撃というかトラウマである。ああはなりたくないと思うが、現に片付けられないので完全に遺伝している。

 これはありがちだが、子供の頃から忘れ物やうっかりミスが酷かった。メモしても鞄に入れるのを忘れたり、明日は体育だから体育ズボンを持って行かなきゃ!と思いながら忘れたことが何回もある。高校のときは体育ズボン忘れ芸人になっていた。私は留年していたので一つ下の学年の授業を受けていたのだけど、忘れ物をするともう本当にしんどい。全く見知らぬ人に「忘れたので見せて下さい…」を一週間に一度はやっていたから神経がかなりすり減った。決定的に自分がどこか抜けているではすまないことに気が付いたのはアルバイトを始めたときだ。宅配のチラシにお店の電話番号のシールを私が作ってみんなで貼っていたのだが、半分くらい貼ったところで電話番号が間違っていることに気づいた。真っ青である。店長は「投函完了!」とゴミ箱にチラシを投げ入れていたので死ぬほど謝った。そして鬼門のレジ。五千円札と一万円札を間違える、毎回5円くらい合わない。レジに入って金額が合ったのと合わなかったのは、半分半分くらいだった気がする。暴言は吐かれたことはなかったがパワハラ店長だったので、無視、睨むなどの威圧が酷かった。とにかく謝るしかなかったのでとにかく謝った。おかげさまで肝が座った気がするが、かなりのトラウマになり、ストラテラを飲み始めるまで社会に出れなかった。仕事をする面でストラテラは安心材料になっている。

 最後にいま悩んでいること。私は小学生の頃からピアノとフルートをやっていた。全てが先延ばし癖のせいだとは言わないが、まっっっったく練習しなかった。それなのでもちろん上達しない。大学まで続けたけど致命的なミスだったと思う。いまも先延ばし癖に悩んでいる。聞きたいドラマCDが30枚くらいあるし暇だから聞けば良いのになんか面倒くさい。見たいアニメも見る見る詐欺。わりと健常者にもあることらしいけどなんとかならないんですかね。

 私の動作性IQは75、言語性IQは98、平均IQ87。知的障害のグレーゾーンぎりぎりである。確かに頭の回転が悪いし記憶力もない。なにより男に騙されやすかったり、おじさんの愛人になっちゃう辺りは知的障害の女の人によくあるらしく、かなり心当たりが合った。それでもストラテラを飲み始めて朝起きれるようになったり、忘れ物が減ったり、人の話に集中できるようになったりして徐々に社会復帰しつつある。またコンサータをいれてみたり、生きやすくなる術をたくさん研究したい。何よりゴミ屋敷おばさんになってゴミに埋もれて死にたくないので、ADHDと時には共に生き、時には戦いながら私はこれからも生きていこうと思う。

眩しい世界をもう一度愛したい

 メンヘラが発症してから何年経っただろう。数えるのも面倒くさいくらい歳をとった。自傷、恋愛依存は治って自殺未遂で救急搬送されることも減ったが、睡眠障害双極性障害は治らない。

 高校、大学時代は病みながらもそれなりに友達がいたのだが、健常者の友達に辛いときに辛いと言えない。私がパニック発作起こしながらへろへろで学校に到着すると、友達はずっと昨日の飲み会の話をしている。病気で出来ないことをクズキャラのふりをしてヘラヘラしてしまう。それが一種のトラウマになり、大学を中退してからは健常者の友達と一切会わなくなった。無職だったので合わせる顔もなかった。

 必然的に会うのはツイッターのメンヘラだけ。お薬パーティーをしてお酒とブロンを一気しながらみんなでスニッフ、脱法ハーブのお店でハーブを買ってから満喫でキメる。ろくなことをしなかった。辛いからってやっていいことと悪いことがあるんだよ!と当時の自分に言いたい。

 メンヘラ芸でフォロワーが増えていった私はアルファの人たちとも関わるようになる。結論、アルファはたいていやばい。ゴキブリで家を崩壊させるのはまだかわいい方で、法を犯しちゃうとやばい。実際私のツイッターで出会った彼氏は覚せい剤所持で逮捕された。そんな世界にいたのでますます一般人と会えなくなる。だって話題が警察、自殺、逮捕、閉鎖病棟入院、そんなことしか話せない。しかも無職だし(二回目)。

 そんな中で私の人間関係構築を変えたのは、無職メンヘラヤク中ギャンブル依存借金癖の彼氏だった。穏やかに付き合っていたものの別れ際が最悪だった。簡単に言うとママと喧嘩したから自殺する!死亡保険でお金返す!みたいなかんじだった。まず自殺で生命保険は降りない。そんなことも知らないの!?とドン引いた。そして元カレが本当に自殺したことがある私としては、自殺を仄めかす発言はトラウマが蘇って辛かった。一番許せなかったのは心配して大丈夫?と聞いたら「ママと仲直りしたから平気!」だった。ブチギレて別れた。

 付き合っていたときに「お互いそろそろ働かなきゃね〜」と話していたし、一人暮らしして同棲したかったので、私は別れたその日初めてハローワークに行っていた。いくらクズでも好きな部分もあったので、寂しい気持ちを全力で就活してごまかした。正社員にはなれなかったけど、なんとかパートとして働き始めることができた。働くのなんて二年ぶりくらいだった。

 そして正月に高校の同窓会に誘われた。話すネタ(仕事)が出来て社会のこともなんとなくわかった私は、本当に久しぶりに健常者に会うことが出来た。みんな優しく受け入れてくれた。昔に比べたら症状も良くなっていたので、辛いのを我慢してではなく純粋に楽しめた。それからはよく同級生たちと遊ぶようになって、逆にメンヘラと遊ばなくなった。私はもうそこまで死にたくないからメンヘラに「死にたいよねー」と言われても「うんそうだね〜(棒)」になってしまうのだった。あと単純に事件に巻き込まれたくない。

 健常者の友達と遊ぶようになって、みんなみたいに正社員で働きたい!キラキラしたい!という思いが強くなった。もう事件ばかり起こるどろどろした世界は嫌だ、普通の世界で生きたい、普通になりたい。そんな思いでこの一年頑張ってきた。まさにタイトルのような心境である。転職活動して12回面接で落とされて心が折れたので、妥協してまたパートで働いた。半年続いた。最初の一ヶ月は慣れない環境が苦しくて、不眠に不眠が続き、鬱状態になって電車に飛び出した。それでも頑張って続けた。

 ところが、わりと普通になったところで私が変わったと思うのは”流行の服を買えるようになる”だけだった。職歴も出来たし友達も増えた。でも私の気持ちをわくわくさせるような変化は”流行の服を変えるようになった”だけだった。無職なときは暇だったから働いたけど、働いていても退屈だった。職種柄のせいなのかもしれないが、仕事って私にとっては虚しいし退屈なのである。生活保護になってもブラック会社で働いても心の根底は変わらない気がしてしまう。何も満たされずにただ時間が過ぎて行くという点では一緒だと思う。

 服は良い。買ったばかりのかわいい服を着てお気に入りのリップをつけると、生きていることが少し楽しくなる。羽が生えたような軽い足取りで仕事に行くことができる。私の好きな服のブランドは少し高くて、無職じゃ一年に二、三着か、中古でしか買えない。安いぼろぼろの服を着てたら気分も沈む。そして流行の服を身につけていると、私は普通の人と同じ時の流れの中にいるんだ、引きこもって時が止まってた時とは違うんだ、と心底安心するのである。だから、私は来年も流行の服を買うためだけに働きたい。

 

 

※記事タイトルはkalafinaLacrimosa

同棲していた恋人が自殺した話

二年前、恋人が自殺してから私は長い長い退屈に襲われている。特に命日でも何でもないのにこの話をするのは暇だから。そしていつでも頭によぎるから。

 

彼が亡くなったのは8月14日。元々精神を病んでいた彼は5月に覚せい剤所持で逮捕、また6月に麻薬輸入容疑で不起訴になり二回目の出所をしてから、ずっと酷い鬱と不眠症に悩まされていた。かかっていた精神科はヤブで有名でいまは院長がリタリン依存で自殺してなくなったと言われている黒い病院。ハルシオンマイスリーロヒプノールエリミン、ベルソムラ大量に飲んでいたけど朝まで眠れない日がよくあった。そして異常に体力がなかった。留置所で体力が落ちたって言っていたけど、鬱の気力のなさだったんじゃないかといまでは思う。タクシー代で4万円使った日もあったし、1500円くらいのユンケルを一日最高6本飲んでいた。

 

 一番彼を追いつめていたのは2ちゃんねるだった。2ちゃんねるで叩かれて自殺(笑)と世間は笑うだろうけど実際に死んだのだから笑えないものだ。彼は当時批評家になることを諦めてプログラマー職業訓練に通っていたのだが、そこで出会ったひとたちに本名を検索されたらどうしようと勘ぐっていた。彼の名前は珍しかったのでGoogleで検索するとまずスレが出てくるし、そこには前科や悪い噂がたくさん書かれていたのは事実だ。

もうひとつ、やはり職業訓練が厳しかったのだろう。鬱病の頭ではプログラミングなんて入ってくるわけがない。でも「辞めたら?」とは言えなかった。彼に挫折感を与えたら余計死にたくなってしまいそうだから。

彼は批評界隈で有名だったが、意外なことに出所後哲学書を全部実家に送り返している。前科が出来たことで批評家への道が閉ざされたと思ったんだろう。これも彼を絶望させたと思う。

 

7月、彼はずっと鬱だった。カーテンを閉ざして真っ暗な部屋で、目が覚めたらジャックダニエルデパスを流し込んで寝るというのをを繰り返していた。7月後半からよく住んでいたマンションの10階に行くようになった。飛び降りの下見か飛び降りようとしていたのか、とにかくしょっちゅう行っていた。それでも隅田川の花火大会には一緒に行ってくれたし、記念日にはお祝いをした。調子が良い日にカラオケにも行った。最後に歌ったのはハチのアイネクライネだと思う。すごく彼らしい曲だ。

 

8月に入ってから私たちは喧嘩をして、私は実家に帰っていた。私は鬱病の彼と暮らすことに疲れ果てていて、まともな医者にかかってまともな治療を受けてほしいと言ったが、彼は極度の精神科医不信だったから聞き入れなかった。しかし、鬱病の彼をひとりにしておくのはやはり心配だったので3日で帰った。今思えば帰らないほうが良かったのかもしれない。ひとりの方が楽だったのかもしれない。それからはずっと「ごめん、今から死んでくる」「愛してるなら死なせてくれ」「殺して、気が狂いそう」などの言葉を言われ続けた。少しでも死の感覚を味わえさせられるならと、彼の首を締めたことがあった。そのときの彼は無抵抗で安らかにすら見えたのでとても怖かった。

 

死ぬ前前日、私はクックドゥーで料理を作った。すごく美味しい!と喜んでくれて、毎日美味しいご飯を作ろうと思った。しかし死ぬ前日、とてつもなく不味いオムライスを作ってしまった。卵に牛乳を入れすぎて腐敗臭がした。彼にも「ごめん、これは食べられない」と言われた。真面目にこのとてつもなく不味いオムライスのせいで彼は死んでしまったんじゃないかといまでも思っている。オムライスはトラウマだ。

 

最期の夜、また死にたいようなことを言われたので「もうプライドも何もかも捨てて諦めなよ、全部諦めちゃえば楽になるよ」みたいなことを私は言った。彼はそれを聞いて、神聖かまってちゃんの死にたい季節の「ねえそうだろう 諦めると僕らは なぜか少し生きやすくなる」と口ずさんでいた。その後彼は伊集院光のラジオを聞きながら寝た。私は警察を呼んで、2ちゃんねるの書き込みのせいで恋人が自殺しそうだ、どうにか書き込みを消せないかと相談していた。まあ難しいんじゃないかと言われた、悲しいけど当たり前だ。

 

死ぬ直前、朝の5時くらいに起こされた。「煙草濡れてんだけど」と言われた。私は彼が自殺しないように彼より早く起きて彼が寝たのを確認して寝る生活を続けていたので疲れていたし眠かった。「あとで買いに行くから」と言って寝た。これが彼との最後の会話だった。

 

7時頃、インターホンが鳴った。昨日の警察官だった。「同居人はいますか?」「同居人がマンションの下で倒れていたので救急車で運ばれました」と言われた。咄嗟に外に出て下を見下ろしたら私が100円ローソンで買ったピンクのサンダルがふたつ、転がっていた。即座に察した。警察が調査したが、やはり10階から飛び降りて自殺したようだった。遺書はなかった。飛距離が長かったらしく、またドラッグをキメて飛んだんじゃないかと私まで疑われたけど検査の結果彼は素面だった。素面で10階から飛ぶなんて出来ると思っていなかったので驚いた。警察署に連れて行かれて、彼の母親が来て、遺体修復が終わった彼と対面した。昨日まで温かかった彼が冷たかった。顔がひんやりした。幸い頭や顔に損傷はなかったので綺麗な顔をしていた。

 

彼の遺書はなかったと言ったが、数日前の未遂で終わったときの遺書は残っている。

 

二度と目覚めたくない

死ぬしかない

死が一番の幸せ

 

魅力的な文を書いていた彼にしてはありきたりな遺書だなと思った。「人生はサヨナラだ」とかかっこいいこと言ってほしかった。そして何か私に一言残してほしかった。

 

最近、体感時間が遅い。一日がとても長い。彼と過ごしていた時間が半年なら今年の半年はまだ一日も経っていないんじゃないかと思う。私が求めていたのは彼が持っていたエキセントリックさとカリスマ性だったのか。でも、落ち着いていた頃の彼が何より大好きだったのは確かだ。彼ほど私を楽しませて驚かせて悲しませる人なんてどこにもいなくて、毎日大きな虚無に晒されている。

 

私は死者を引きずりたくない。死者に恋など出来ないし死者を語りたくない。それでも退屈な仕事をしていると頭をよぎるのは彼のことで、彼の人生や自殺したときの心境、生きていたらどうなっていたんだろう、様々なことを考え始める。死にたいとき、また考える。私と彼は家庭環境が似ていた。怒鳴る父に過保護な母。だから気持ちを痛いほど共有し合えたし、一緒に苦難を乗り越えて来た共同生命体のような気がしていた。その彼が死んでしまって私が生きていて、仮にも社会に適応しているのはとても不思議なことだと感じる。私の人生軸は彼が死ぬ前と彼が死んだ後でふたつに別れているのだ。

 

ほら、彼のことを考えているとすぐに時間が過ぎる。なんだかあの不味いジャックダニエルが飲みたくなってきた。